先日、心に思い浮かぶことをあれこれと書いていたのだが、どうにもまとまらないうちに誤操作ですべて消去してしまった。
誰かに伝えたかったのか、それとも自分の中だけで完結してしまいたかったのか、それすらもよくわからないままだ。
とにかくここのところ抱えているモヤモヤ感の謎解き作業が中断され、今ひとつすっきりしない思いで週末を過ごしているので、いつもの「ですます調」をやめて自分自身に向けて書いていくことにする。
ほんの少し心のささくれた夜だから読む人にとってはろくな内容じゃないと思うけれど、外へ出すことで内面の換気ができればという気持ち。
なんとなく漂流感を覚えてしまう今日この頃。あの曲がいつもより感傷的に聴こえてしまう。
心的耐性が弱っているんだろうな。
繋がりって何なんだとふと思う。
流行りのツールで「お友達気分」を手軽に味わえるようになったから、誰かを感じとる感度が鈍ってきている気がする。
そこにある「巡り会い」という側面は十分に評価しているつもりでいるけれど、「友達」カテゴリーに所属している安心感に胡座をかいているうちにそれが無関心に変わっていることも少なくない。
「本気」も「本気のまねごと」も、そして「嘘」さえもがひとつの画面上で一緒くたになっているものをスマートにやり過ごすことの味気なさに正直心が萎える。
誰かとの繋がりやそのコレクションを公にすることで得られる安心感のようなものはそう長くは続かない。
むしろ繋がりのコレクションが増えれば増えるほど安心の指数は減るんじゃないかと私個人は思っている。少なくとも「友達」の定義は玉虫色を帯びてくる。
「繋がり」という言葉もずいぶんと広義になったものだよねとひねくれてみたくもなる。
こういうことを書くと決まって「繋がりアピール」をしたがる人が出てくるけれど、まぁ、付け焼き刃的なものは見抜けてしまう。
遠く離れると、そのへんはかえって敏感になってしまうものなのかもしれない。
物理的距離によって疎遠になることはままあることなんだけど、繋がりを支えるツールによってそれが強調されるなんてどうかしてる。
そんなことより、夜空を見上げて誰かに想いを馳せたり、道端に咲く花を見て誰かを思い出したり。
そういう相手とは遠く離れていても不思議と通じ合えるものだ。
そして、互いの心の中に自分の居場所があることをごく自然にどちらからともなく確認し合える。
多くは語らないのに、ありのままの自分を丸ごと認めてくれるような安心感がある。
もちろん近くにいて会いたい時に会えればそれに越したことはないけれど、ちゃんと想いが届いているのならって思える。
My circuit is NOT dead, my friends.
Love,
Nozomi
誰かに伝えたかったのか、それとも自分の中だけで完結してしまいたかったのか、それすらもよくわからないままだ。
とにかくここのところ抱えているモヤモヤ感の謎解き作業が中断され、今ひとつすっきりしない思いで週末を過ごしているので、いつもの「ですます調」をやめて自分自身に向けて書いていくことにする。
ほんの少し心のささくれた夜だから読む人にとってはろくな内容じゃないと思うけれど、外へ出すことで内面の換気ができればという気持ち。
なんとなく漂流感を覚えてしまう今日この頃。あの曲がいつもより感傷的に聴こえてしまう。
心的耐性が弱っているんだろうな。
繋がりって何なんだとふと思う。
流行りのツールで「お友達気分」を手軽に味わえるようになったから、誰かを感じとる感度が鈍ってきている気がする。
そこにある「巡り会い」という側面は十分に評価しているつもりでいるけれど、「友達」カテゴリーに所属している安心感に胡座をかいているうちにそれが無関心に変わっていることも少なくない。
「本気」も「本気のまねごと」も、そして「嘘」さえもがひとつの画面上で一緒くたになっているものをスマートにやり過ごすことの味気なさに正直心が萎える。
誰かとの繋がりやそのコレクションを公にすることで得られる安心感のようなものはそう長くは続かない。
むしろ繋がりのコレクションが増えれば増えるほど安心の指数は減るんじゃないかと私個人は思っている。少なくとも「友達」の定義は玉虫色を帯びてくる。
「繋がり」という言葉もずいぶんと広義になったものだよねとひねくれてみたくもなる。
こういうことを書くと決まって「繋がりアピール」をしたがる人が出てくるけれど、まぁ、付け焼き刃的なものは見抜けてしまう。
遠く離れると、そのへんはかえって敏感になってしまうものなのかもしれない。
物理的距離によって疎遠になることはままあることなんだけど、繋がりを支えるツールによってそれが強調されるなんてどうかしてる。
そんなことより、夜空を見上げて誰かに想いを馳せたり、道端に咲く花を見て誰かを思い出したり。
そういう相手とは遠く離れていても不思議と通じ合えるものだ。
そして、互いの心の中に自分の居場所があることをごく自然にどちらからともなく確認し合える。
多くは語らないのに、ありのままの自分を丸ごと認めてくれるような安心感がある。
もちろん近くにいて会いたい時に会えればそれに越したことはないけれど、ちゃんと想いが届いているのならって思える。
My circuit is NOT dead, my friends.
Love,
Nozomi
「流行のツール」について、
わたしも今どうしようかと考えているところ。
自分に限って言えば「さびしんぼう」なんだわよ。(てへへ)
とは言え、日本にいるときのような交流が持てない今は、スパッと手放せないのが実情です。
自分に安定感が欠けている時に上手く距離を置けるようになれたらいいのかもしれません。
ただそこは私もさびしんぼうなので、気付いたらつまずいていることが多いなぁ。