3月に入り、イスラエルはすっかり春景色になった。
日によっては日中の最高気温が25℃近くまで上昇することもある。例えるなら、ゴールデンウィーク時期の東京のような陽気だ。
冬の厳しさが全く感じられないこの国にいても、春の訪れはやはり嬉しいものだと感じる。
昨日の午後わずかに降った雨を最後に、このまま半年に渡る乾季に突入するのかもしれない。家の近くの空き地に黄色い野花が一気に咲き誇っている。気の早過ぎる蚊が夜の眠りを邪魔しにくるのには少々困っているのだけれど。
昨日の練習は身体コントロールがすこぶる抜群で、いくつかのアーサナではこれまでに味わったことのない感覚があった。ごく稀にこういうマジカルな日がある。ブジャピダアーサナでの腕の筋肉の使い方、クルマアーサナでの大腿下への肩の入り具合、バッダコナアーサナの前屈時の角度など。外見的な変化はおそらく微々たるものである。が、しかし、身体の内側で感じられる変化は私にとっては十分ドラマチックな出来事であった。練習のたびに記録しているヨガノート、昨日のメモには思わず「いい感じ!★★★★」と記してしまうほど。
アシュタンガヨガにハマってからというもの、ヨガの練習内容は愚直なまでに日々同じことを繰り返している。同じことの繰り返しは、やもすれば退屈なものになりかねないが、きちんと心を傾けてさえいれば微々たる変化にも敏感になれる。これを『自分観察力の向上』とでも呼んでみようか。
己の感情に従順であることが自分らしさなのだと私はずーっと勘違いをして生きてきたけれど、この国に暮らすようになってからはどうやらそれだと上手くいかず自分を見失うこと度々であった。感情に振り回され、ブレまくり、落ち込みまくって、逃げることや悔やむことに多くの時間と心を費やしていたが、今では不要な感情を一旦脇に置いてから客観視する術をある程度身につけたので、色々な場面での対処が以前に比べてスマートになったと思う。おかげでネガティブな感情を無駄に倍増させる悪循環も減り、やっと大人らしい大人になれた気がする。
そして何より、練習を続けてきたからこそ授かることのできるご褒美的な変化によって、なんとも言い得ぬ自信が自分の中に静かに根付いていくのを感じられる喜びがある。
とにもかくにも、かれこれ6年近く、たまにサボることがあるにせよ、よく続いたなと我ながら驚いている。なにせ、初めて受けたアシュタンガヨガのレッスンでは初っ端の太陽礼拝の時点で半泣きだったのだから。とにかくキツかったのをよく憶えているが、それ以上にシャバアーサナの心地良さが従来の経験を遥かに超えるものだったために、まんまと再びレッスンに足を運んでしまったのである。あとは大いなる友情と妙な意地に支えられ、気づけば後戻りできない道を歩んでいたという次第。
またこれからもひたすら続けていくのみで、続ければ続けるほど新たな目標が次々に現れてくるのだろう。そのプロセスは、いくら登っても頂上に辿り着けない永遠の登山のようで、ただがむしゃらに上を目指す時もあれば、時に回り道をしたり、あるいは歩んで来た道を振り返ってみたりしながら続いていくはずである。そして、たまにふと見渡せば見たことのない景色が広がって、それまでの積み重ねを労い祝福してくれるのだろう。
*ヨガの実践は本当に地道な積み重ねなので、このように自分を鼓舞する必要があるのです。へへ
老木に間借りして咲く黄色い花@とある日のテルアビブ・ヤッフォ
ナマステ&シャローム
Nozomi
日によっては日中の最高気温が25℃近くまで上昇することもある。例えるなら、ゴールデンウィーク時期の東京のような陽気だ。
冬の厳しさが全く感じられないこの国にいても、春の訪れはやはり嬉しいものだと感じる。
昨日の午後わずかに降った雨を最後に、このまま半年に渡る乾季に突入するのかもしれない。家の近くの空き地に黄色い野花が一気に咲き誇っている。気の早過ぎる蚊が夜の眠りを邪魔しにくるのには少々困っているのだけれど。
昨日の練習は身体コントロールがすこぶる抜群で、いくつかのアーサナではこれまでに味わったことのない感覚があった。ごく稀にこういうマジカルな日がある。ブジャピダアーサナでの腕の筋肉の使い方、クルマアーサナでの大腿下への肩の入り具合、バッダコナアーサナの前屈時の角度など。外見的な変化はおそらく微々たるものである。が、しかし、身体の内側で感じられる変化は私にとっては十分ドラマチックな出来事であった。練習のたびに記録しているヨガノート、昨日のメモには思わず「いい感じ!★★★★」と記してしまうほど。
アシュタンガヨガにハマってからというもの、ヨガの練習内容は愚直なまでに日々同じことを繰り返している。同じことの繰り返しは、やもすれば退屈なものになりかねないが、きちんと心を傾けてさえいれば微々たる変化にも敏感になれる。これを『自分観察力の向上』とでも呼んでみようか。
己の感情に従順であることが自分らしさなのだと私はずーっと勘違いをして生きてきたけれど、この国に暮らすようになってからはどうやらそれだと上手くいかず自分を見失うこと度々であった。感情に振り回され、ブレまくり、落ち込みまくって、逃げることや悔やむことに多くの時間と心を費やしていたが、今では不要な感情を一旦脇に置いてから客観視する術をある程度身につけたので、色々な場面での対処が以前に比べてスマートになったと思う。おかげでネガティブな感情を無駄に倍増させる悪循環も減り、やっと大人らしい大人になれた気がする。
そして何より、練習を続けてきたからこそ授かることのできるご褒美的な変化によって、なんとも言い得ぬ自信が自分の中に静かに根付いていくのを感じられる喜びがある。
とにもかくにも、かれこれ6年近く、たまにサボることがあるにせよ、よく続いたなと我ながら驚いている。なにせ、初めて受けたアシュタンガヨガのレッスンでは初っ端の太陽礼拝の時点で半泣きだったのだから。とにかくキツかったのをよく憶えているが、それ以上にシャバアーサナの心地良さが従来の経験を遥かに超えるものだったために、まんまと再びレッスンに足を運んでしまったのである。あとは大いなる友情と妙な意地に支えられ、気づけば後戻りできない道を歩んでいたという次第。
またこれからもひたすら続けていくのみで、続ければ続けるほど新たな目標が次々に現れてくるのだろう。そのプロセスは、いくら登っても頂上に辿り着けない永遠の登山のようで、ただがむしゃらに上を目指す時もあれば、時に回り道をしたり、あるいは歩んで来た道を振り返ってみたりしながら続いていくはずである。そして、たまにふと見渡せば見たことのない景色が広がって、それまでの積み重ねを労い祝福してくれるのだろう。
*ヨガの実践は本当に地道な積み重ねなので、このように自分を鼓舞する必要があるのです。へへ
老木に間借りして咲く黄色い花@とある日のテルアビブ・ヤッフォ
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