Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

タイミングとセンス

2016-03-27 23:22:57 | エッセイ
以前、当ブログ記事にて取り上げた武田鉄矢さんのネットコラムの中に登場する甲野善紀という武術家に興味を持ち、著書のひとつを読んでみた。

『できない理由は、その頑張りと努力にあった』

タイトルからいきなり図星。チクリときた。

武術家の著書なので当然、武術に関する記述が中心なのだけれど、身体操作を深めていくという趣旨では武術もヨガも共通することは多く、読んでいてやはり参考になる箇所がいくつもあった。


練習中に感じる停滞感を打破できるヒントがこの本の中にあるんじゃないかと期待していたのだが、その中でも「あー、これだわ」と私が印象的に感じたことはふたつ、タイミングとセンスに関するものだった。実際にはヒントというよりも「そんなことを言われたら身も蓋もないよね」というような、かえって駄目押しをされた気分になる鋭い指摘である。痛いところを突かれ少々うなだれ気味で読み進め、同時に腑に落ちる点が諸々あり、最後には開き直って練習を続ける以外に道はないと思い改まった気がする。

まず、タイミングについて。
【第1章 違和感を生かすセンス】の[一生懸命ではないから、出来る]という項目に、甲野師範よりも武術的センスに優れたご子息が、なかなか上手くできない技に出会った際に「時期じゃないから」といって技の練習を止めたエピソードが述べられてある。ここではタイミングという言葉ではなく時期という言葉が用いられている。
師範の口述を抜粋して引用すると、

「もうできない」と諦めたわけではないのでしょうが、今の状態の自分がどれほどやっても、かえって逆効果になるということが、瞬間的に分かったのだと思います。だから、「今はやらない方がいい」と判断したのでしょう。
「これは出来ない」という感覚が、自分に刷り込まれることを避けたのだと思います。


初盤から一本取られる。「確かにアレは苦手意識をしっかり刷り込んでしまってるわー」と思い当たる節があるある。
しかも、私はヨガノートにせっせと「出来ない、出来ない」と記録する念の入れよう。数年前にヨガ指導をしている知り合いの女性から「それ、ノートに書くのやめたら?」と指摘されて以来、なるべくその件についてはノートで触れないようにしているものの、苦手意識の抹消にはいまだ至らずにいる。
確かに、本場マイソールでは能力に応じて順序立ててアーサナが与えられ、人によっては「ここまで」と練習を止められその先のアーサナに進めさせてもらえないことがあると聞く。個々の能力に対する的確な判断があるからなのだろう。次の技、次のアーサナに取り組むための準備を整えることの重要性は共通しているようだ。

それからもうひとつは、センス。
ヨガ歴はまだそれほどあるわけでもないのに、めきめきとアーサナが上達していく人たちがいる。私が数年かけてまだできないことを、彼らはわずか数ヶ月、数週間で体得していまう。経験や練習量の差ではないのならば、パワーの差なのか、骨格の違いなのか、環境のせいなのか、などあれこれ考えた。どれもその要因のようでありながら、しかし、決定的な要因と言い切れるものでもなかった。そうこうするうちになんとも受け入れがたいけれど、持って生まれた身体能力がネックなのかと薄々考えるようになってきた。ところが、この著書の【第2章 出来るためには働かせるな】の[プラス思考の限界]にはもっと救いのない言葉で表現してある。それはセンスであると。以下、再び引用。

そのセンスですが、これがどうして養われたかは極めて分かりづらいのです。少なくとも、意識的努力では、決して養われないと思います。
私の武術の稽古においても、「人が十回やれば自分は三十回やる」といった、誰にでも分かりやすい単純な努力に疑問を呈するのは、このセンスがそうした単純な反復稽古的努力では決して養われないと思うからです。


いやもう本当にこれはグサリと突き刺さった。頭や心では咄嗟に否定したくなるのに、体幹あたりで「やっぱりそうなんだ」って納得している自分がいる。体育の授業でいつまでたっても私には跳び箱の段数が増えないあの感じ、みんなが次々とできるようになる逆上がりで自分だけはコツをつかめないまま取り残されるあの感じ。みんなにはあって自分にないもの、それがセンスだった。
ヨガと一般的な運動をイコールにして考えるべきではないのだろうけど、実際に身体を動かす、身体操作という観点だけで言えばそこで働かせるセンスはヨガも他の運動もだいたい同じものだと思う。だとすると、私の停滞ぶりはあっさりと説明ができてしまう。センスが足りないのだ。

ここで甲野師範はセンスに関してさらに手厳しい指摘を展開する。

本当に身に付く、役に立つ稽古やトレーニングは、夢中になってやった結果としての数稽古であり、意識してノルマとして課す猛稽古、数稽古は、もちろんそれなりの成果は得られるでしょうが、センスそのものを養うかどうかは、極めて疑問と言わざるを得ません。

要するに、一人スポ根みたいになって数をこなすだけじゃどうにもならないぞ。練習における己の心構え、気概はどうなのかと。目的意識や自我を剥き出しにして取り組んでやしないか疑ってみよということか。「心を傾けて実践せよ」という『ヨーガ・スートラ』にある教えを思い出す。

長く自主練を続けていると、練習に対する気持ちの加減やモチベーションの維持がとても難しくて、私は時に躓き、挫けてしまう。だから、できるだけ自分の練習を肯定しながらやってきた。もちろん、あれこれやり方を変えたりして試行錯誤をしているのだけれど、それはセンスを養える代物なのか、と問いただされたわけである。この問いに対しては、そうであればいいなと願うほかない。先天的なものが欠けているのなら、後天的なものを培って補っていくしかないのだ。この歳で。道のりはまだまだ険しそうである。



ナマステ&シャローム
Nozomi

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