Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

資格とは

2013-12-03 13:02:30 | エッセイ
「資格って何だろうなぁ」と思うことがある。

つい先日、ヨガの代講を受けた時もこの疑問が頭をもたげた。というのも、代講の指導者のガイドやアジャストが散々なものだったからだ。
そんなことを私自身言える口ではないことを重々承知した上で、自戒も込めつつ今日はちょっと切り込んでみたい。


さて、まずは先日の代講が具体的にどうだったのかというと、カウントそっちのけでとにかく喋り倒すガイドだった。自身の学びや経験を通じて身につけた知識を途切れることなくガイドに織り交ぜるので、まともに聞いていると自分の呼吸に耳を傾ける間が片時もないどころか、呼吸がやや苦しくなるほどの情報過多。たまのカウントも早くなったり遅くなったり。そもそも講師本人が呼吸そっちのけで喋っているのだからそうなるのも当然と言えば当然だった。
アジャストメントもマックスの力でいきなり入ってくる。ひと言で言うと乱暴。クラスの進行中に何度か「もういいよ」とか「ちょ、無理」「いたたた」という声があちこちから聞こえてきた。けれども本人が意に介す様子はなく、「まだあなたはここが硬いのかしらね」「ちゃんと呼吸をしてれば大丈夫なはずよ」という有り様。気がつけば彼女が自分の方に近づいてくることにいちいちハラハラするようなクラスだった。指導者がいる練習で「お願いだから、どうか触れないでください」という気持ちになるのは初めてだった。

普段クラスを担当している若先生も代講の彼女も、私と同じシャラでティーチャートレーニング(以下、TT)を受けた同志である。同じ師の下で同じ時間をかけて同じ資格を手に入れたはずなのだが、どうしてこうも差があるのか。資格とは何であるのかと問わずにはいられない。


goo辞書で解説されている「資格」について引用してみよう。
1 あることを行うのに必要な、また、ふさわしい地位や立場。「理事の―で出席する」
2 あることを行うために必要とされる条件。「税理士の―を取る」

現代社会で増え続けている「資格」に、果たして上記の説明が当てはまるものが何割あるだろう。
資格をコレクションする人もいるし、資格を商品にしている企業も存在する。就職のため、出世のためにと、ありとあらゆる資格が世に溢れている。資格は各分野の専門家の水準を高める役割を果たす一方で、場合によってはお免状なるものを持つだけの素人を増加させているものも現実にあるという印象を私は持っている。

資格ビジネスのカテゴリーに精神世界が加わってからは特に、資格がお金で買い求めやすい時代になったような気がしないでもない。とても生意気なことを言っているかもしれないけれど、国家資格などとは違い、精神世界のものは数字で計りにくいものだけに資格付与の基準も今ひとつ曖昧であると思う。昔なら非常に厳しい修行を経たわずかな人間にしか与えられなかったであろうものも、受講料を支払ってマニュアル化されたスキルを一通り身につければ、あるいは規定以上の時間、講習に参加していれば、お免状ゲットとなってしまう。精神鍛錬とか人格向上は特に問われなくなりつつある。それはヨガの世界でも然り。だから上述のような指導者も現れる。遠回りにわが師を非難しているようで心が痛むが、ヨガもビジネスになってしまった現代社会だから仕方がない。それだけヨガが普及したことの裏返しでもあるし、お客さんを追い払うなんてことはナンセンスなこの不景気だ。

そうは言えどもやはり、お免状を手にすることで全ての修練を完了したと思い違う人が出てくるのはいささか考えものだろう。
ヨガの世界に限ったことではなく、資格という看板に寄りかかりきっている人というのはいる。資格取得はスキル向上の単なる通過点に過ぎないのに、あたかもそれが最終目的地だと思い込んでしまっている人。自動車の運転免許だってそう。同じ課程を経て手にしたはずなのに、運転がとても丁寧な人と雑な人とがいるのは、最も分かりやすい身近な例だ。
このような事態が生じるのは、免許などの資格を付与する側と付与される側のどちらに問題があるからなのか。たぶん、どちらにも何かしらの問題があるのだろうが、付与される側の「その後」がカギになっていることは少なくないはずだと私は思う。

私自身はヨガの指導者を志すにあたり3つのTTを受けた。そのうちのひとつであるデヴィッド・スウェンソン先生のTTの最終日のこと。TTの修了証は指導者としてのスキルを保証するものではないという旨が先生の口から語られた。なぜなのか。私は指導者としての一歩を踏み出すために後ろ盾になるものが欲しかったので、先生の言葉にちょっとがっかりした覚えがある。「この修了証をスタジオの壁に飾れば信頼度が上がるな」などと期待していたのが、まさにそれを「しないように」と忠告される。その真意を探るのに3年かかった。その間、自慢の修了証はファイルにそっと綴じられたままだった。これからもそのまましまっておくのだろう。


 資格は自覚を促すもの。そんなオチに辿り着く。



この記事がいつか自分の首を絞めることにならないようにがんばろう。


ナマステ&シャローム
Nozomi

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