Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

過程

2016-05-19 15:43:50 | エッセイ
義母との同居で練習時間が少なくなってしまっているが、アーサナだけがヨガじゃないんだなということをつくづく感じるようになった。アーサナの必要性を軽んじているわけではない。少なくとも私には欠かせない日課である。ただ、アーサナの練習によって得られるものとは、アーサナの練習“過程”がアーサナそのものから離れたところで結実するものであるということが、ここにきてようやく心底理解できたのである。
ヨガマットの上にいる間というのは自分のためのヨガの時間に過ぎないが、周囲に対するヨガ的な在り方というものはヨガマットから離れている時間、つまり日常における行為や思考によってのみ実践あるいは証明されるものなのではないかということ。「私たちの人間性はアーサナとは関係ない」というシニアティーチャー達の言葉に「救いを感じる」状態から一歩前進し、自分自身の意見として根付かせることができたように思う。

このブログでも何度も書いているように私はとにかくアーサナの習得に人一倍時間がかかる。時間をかけて習得できたアーサナもあれば、何年やってもできないアーサナもある。できることもできないことのどちらも、目に見える形に現れる結果そのものは実はそんなに大事ではない。もちろんアーサナによってもたらされる身体的恩恵、つまり健康は人生を豊かにする重要な要素のひとつである。それとは別に精神性という点で話をするならば、ヨガの練習で大事なことは練習過程における心の在り方、気持ちの持ち方にあるのではないかなということ。

そんなことはとっくの前に知ってはいたのだけど、これまでの私はその考えに同意しているに過ぎず、心の奥底でどうだったかというと微かな異物感が拭えていなかった。自分ができないアーサナを他の誰かがネット上で披露する行為にモヤっとしていたのがその証拠である。今は全く気にならないかと言えばそれは嘘になるが、以前のように自分の中の劣等感や承認欲求を駆り立てられることもなく「ああ、またやってるな」程度で流せるようになった。そうすると自分の練習から不必要な苦しみが取り除かれて楽になるものだ。

ヨガの練習は好きでやっていても、常に楽しいかというとそんなことはなくて、自分の弱さや醜さが露わになって苦しくなることも多い。毎日のように同じことの繰り返しなので、その苦しみが長引くことも度々ある。そんな時はやめたら楽だろうなと思ったりもする。けれども、そういうこともひっくるめて自分の成長には不可欠な過程であると言える。そんな心の紆余曲折をなくしてはこだわりも達成感も抱けなかっただろうし、何より日々の暮らし方、延いては人生に対する態度を狭い視野の中で限定していたままだったと思う。また、不得意なものの克服だけが練習でもなく、得意だからこそ露呈する優越感や自己顕示欲を宥めることも練習である。しっかりと地に足をつけて生きていくには、可能性を信じることも大切だし、自分の限界を知ることも大切で、私の場合、その両者のバランスを取る術はヨガの練習を通してしか身につかなかったように思う。

背骨を複数損傷し手術前後しばらく寝たきりになってしまった義母を自宅で介護する中で、ヨガの練習で培ってきたものが義母への接し方、距離の置き方、気持ちの切り替え方などに活かされている。たとえば倒立そのものは介護には全く役に立たないが、倒立ができるようにと試行錯誤した経験が、今、目の前にある現実を受け入れ、それに対する心の手綱をいかに操るかということに繋がっている。だから、最終的にアーサナができるようになるかならないかは、それほど重大なことではないと言える。できない時の悔しさにどう対処するのか、自分の現状をいかに的確に把握するか、秘められた可能性を引き出す方法をどれだけ考え実践できるのか。そういったことの繰り返しを通して積み重なる幾重もの経験の層の上に、自分の暮らしぶりや人間関係を築いていけたらそれでいいような気がしてきた。




ナマステ&シャローム
Nozomi

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