ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第7主日(特定11)の旧約聖書(2017.7.23)

2017-07-21 07:00:59 | 説教
断想:聖霊降臨後第7主日(特定11)の旧約聖書(2017.7.23)

心を配る   知恵の書 12:13 、16~19

<テキスト>
13 すべてに心を配る神はあなた以外におられない。だから不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。
14 あなたから罰を受けた者を弁護しようとして、あなたに逆らって立つ王も支配者もいない。
15 あなたは正しい方、すべてを正しく治められる。罰に値しない者を罪に定めることは、御自分の権能にふさわしくないと考えておられる。
16 あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。
17 あなたの全き権能を信じない者に、あなたは御力を示され、知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。
18 力を駆使されるあなたは、寛容を持って裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。力を用いるのはいつでもお望みのまま。
19 神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。

<以上>

1.特定11
特定11の福音書はマタイ13:24~30,36~4である。ここではせっかく種を蒔いた畑に、敵が来て毒麦を蒔いたという譬え話である。さぁ、どうするべきか。僕たちが、毒麦を抜き集めて焼いてしまおう提案しましたが、主人はそれでは良い麦もいっしょに抜いてしまうかも知れないから、両方育つまで待てという、話である。主人の気配りについて、なかなか含蓄のある譬えである。それに対応するとして選ばれたのが、知恵の書12章である。ここでは知恵の書らしく、心配りのある神が描かれている。つまり神の公正さが強調され、教訓として「神に従う人は人間への愛を持つべきこと」が教えられる。ということで、今週の断想は終わってしまう。
今日の旧約聖書に「知恵の書」のテキストが選ればれているので、良い機会なので、知恵の書について少し学んでおく。

1. 旧約聖書続編
「知恵の書」は本来の旧約聖書(39巻)には含まれず、いわゆる「続編」に属している。これは、一般的には本来の旧約聖書と新約聖書の中間期に書かれたものとされる。
現在、日本聖書協会からでている新共同訳聖書には、「続編つき」とついていないのとの2種類発行されている。この「続編」がプロテスタント教会において『旧約聖書外典』と呼ばれていたもので、これが聖書協会発行の聖書に「旧約聖書続編」として掲載されたのは画期的なことで、これはカトリック教会とプロテスタント教会との対話の成果であると言えるだろう。元々、この続編はカトリックでは聖書の一部であり、聖書の他の部分と一体化していた。ところが、聖公会ではプロテスタント教会の一角に属しつつ、カトリック教会が聖書としているこの部分を捨てることが出来ず、というよりも聖書の一部として尊重し、『アポクリファ(旧約聖書外典)』として独自の翻訳を出版してきた。その本の中で、「英国聖公会においてはアポクリファを旧約正典には属しないが、「生活の模範、及び行為についての教訓」のために、教会にて読まれるべき聖書として公に受け入れた」という。なお、それに続いて、「アポクリファはわれわれにとって、心霊的かつ実際的な教訓を与える信仰生活の指導書であるばかりではなく、新約時代の直前より新約時代にかけての、ユダヤ人の宗教的発達を示す貴重な文献である」と述べている。その意味で、新共同約聖書において「続編」とはいえ、組み込まれたことは喜ばしいことである。詳細については、新共同約聖書に付録されている「聖書について」の『旧約聖書続編」に記されている。

2. 知恵の書
「知恵の書」は日本聖公会から出版されていた『アポクリファ』では「ソロモンの知恵」と呼ばれてきた文学作品である。本書の特徴はいわゆる知恵文学と呼ばれる著作集の中でも最もギリシャ思想に近い作品であるとされる。著者はアレキサンドリアに住むユダヤ人学者で、本書は学生たちのために書かれた教科書であろう。この「知恵の書」からのテキストが主日礼拝において読まれるのは、3年周期で、この主日だけである。
知恵の書について、前述の『アポクリファ』においては次のように説明されている。「本書はアポクリファ中で最も美しい書物の一つである。いわゆる知恵文学に属するものであって、ユダヤ人を異教生活の誘惑とギリシャ哲学の牽引力から救うために書かれたものである。これは、ヘブル文学中最もギリシャ的な書物であるが、その「知恵の讃美」は、いかなるギリシャ文学にも劣らない立派なものである」。本書について面白い点は、「ムラトリの正典表」によると、新約聖書に属している点である。おそらく2世紀終わり頃までは新約正典の一部として教会で広く読まれていたのであろう。※ムラトリ正典目録(英:Muratorian Canon)とは2世紀後半、170年から210年頃に元来はギリシア語で書かれたものだと推定されて書かれたと推定される新約聖書に収めるべき文書を記した著者不明の文書で、ムラトリ正典表とも呼ばれる。
知恵の書は全体として大雑把に4つの部分に分けられるであろう。第1部(1章から6章の半ば)では、人が生きる上での基本的な知恵、第2部(6章の半ばから10章)擬人化された淑女としての知恵への讃美、第3部(11章から15章)人間の愚かさへの警告、第4部(16章から19章)では、イスラエルの解放者である神への讃美、である。

3.忍耐強い神
本日のテキストは第3部から取り出されている。この部分の主題は「神の忍耐は回心をうながす」(12:9~18)で、次の段落が「神の忍耐は寛容を教える」(12:19~22)である。
13節で述べられている「すべてに心を配られる神はあなた以外におられない」という表現は面白い。16節の「万物を支配する」という言い方とは少しニュアンスが異なる。「全知・全能の神」という言い方とも異なる。もっと身近な、もっときめ細やかな神である。ここでは、弱い者には弱く、強い者には強く、悪人には厳しく、善人にはやさしい神が強調されている。ここでの神は絶対に「短気」ではない。この点でこの日の福音書と響き合っている。
「すべてに心を配られる神はあなた以外におられない」という信仰は、強烈である。神々が専門分化し、病気のときの神、金儲けのための神、貧乏人のための神、知恵を与えてくれる神、世の中にはいろいろの神があるが、私たちの神は全ての状況に対応する神である。「心を配られる神」、配慮が行き届いているという意味であろう。薄く広い神ではなく、全てのことに心配りが出来ている神だという。次の言葉が面白い。「だから不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない」。人間が行う裁判の実態は、ほとんど常に不正がある、といっていいと思う。最も意図的な不正もあれば、意図しない、つまり人間の情報の限界による思い込みなどによって、裁判の結果が歪められることが多い。だから人間のやることには「心配(しんぱい)」が伴う。日本語って面白い。「心配り」という言葉と「心配」という言葉とが同じだということ、何か考えさせる。「心配り」が行き届いているかどうか「心配」する。類語大辞典によると、「こころくばり」の漢字表記を音読したもの、とあり、「心配り」と「心配」とは同じ意味の言葉であったらしい。つまり、「心配り」とは現在のことにだけいろいろと配慮するだけではなく、将来のことをも含めて配慮することをふくいんでいるのである。ここまで来ると、これはもう人間の手に負えることではなく、神の業となる。

4.正義と愛
16節の「あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる」という言葉は興味深い。神が正義の源であるという。これはには異論は無いであろうが、その次、その正義の神が力を発揮し、万物を支配する。これも当然なことであろうが、興味深いのは、その次の言葉である。「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」となる。正義が実行されるとき、神はその相手が「いとおしむ」。勿論、これは「神の愛」を示す言葉であるが、ここでは「愛」という言葉を避けて「いとおしむ」という情緒的な言葉が用いられている。旧約聖書、新約聖書全体を通じて「いとおしむ」という言葉は、他の個所には出て来ない、非常に珍しい表現である。神が実力を発揮し、干渉することによって相手を「いとおしむ」。つまり神が人間を「可愛い」と思われる。それは愛以上の感情である。その逆が17節である。神による正義の支配を受け入れないとき、しかも神の力を知りつつもそれに「挑む者」、「逆らう者」に対して「神の咎め」が現れる。というよりも、神の「愛おしむ」心が、「咎め」となる、という意味であろう。それが神の正義であり、神の愛である。
18節の最後の一節は何かドラマを思わせる表現となっている。「力を用いるのはいつでもお望みのまま」。これは日本語の翻訳の面白さで、フランシスコ会訳ではもっと真面目に「あなたは望みのままに、力を発揮される」と訳している。おそらくこちらの方が正しい訳であろうが、新共同訳の方も、シェアークスピアの傑作喜劇「お気に召すまま」を想像させ捨てがたい。
19節は、これらの言葉を通しての教訓的結びとなっている。「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。ここでの「神に従う人」という表現は新共同訳独特の言い回しで、通常はフランシスコ会訳のように、「義人は人に親切でなければならない」であろう。ここでは思い切って「愛」を神の「いとおしみ」に対して「親切」と訳している。

最新の画像もっと見る