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ぶんやさんの記録

断想:大斎節第3主日(2013.3.24)

2019-03-22 13:48:28 | 説教
断想:大斎節第3主日(2013.3.24)

今の時を見分ける  ルカ13:1~9

<テキスト>
1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

<以上>

1.ポンティオ・ピラト
「ポンティオ・ピラト」の名前は使徒信経にも出てくる。ローマの皇帝の名前が使徒信経というキリスト教信仰の最も基本的な文書の中に登場することは、考えてみると非常に奇妙である。ところが、この人物がどういう人物であったのかということになると、あまり知られていない。せいぜいイエスの裁判において非常に重要な役割を果たしたということぐらいであろう。しかし、さらによく考えてみるとイエスはローマの兵士よって逮捕され、ローマの法によって裁かれ、ピラトが十字架刑の判決を下したのであり、イエスはローマの兵士たちの手によって処刑されたのである。
ところが多くのキリスト者たちはイエスを処刑したのはユダヤ人であると考えている。そのことについては、一応ユダヤ人には犯罪人を死刑にする権限がなかったからであると説明されるが、実際にはユダヤ教に対する宗教的犯罪には「石打の刑」があった。例えば、イエスの死よりそれ程遠くないころ、ステパノはユダヤ人の手で石打の刑によって殺されている。
ともあれ、イエスの死についてピラトという人物が深く関わっていたことだけは明らかである。というわけで、先ず始めにポンティオ・ピラトのことについていくつかの点を確認しておく。ルカ福音書3:1によると、洗礼者ヨハネが活動を始めたときのユダヤの総督がピラトであった。ローマ側の文献によると、彼がユダヤの総督に着任したのが26年、それから36年までの約10年間、その地位に留まった。彼の生年とか没年は不明、もともとはローマの騎士階級であったとされる。
私たちはピラトの人物像についてイエスの裁判の場面からしか推測できない。そこで見られるピラトの姿勢は何か頼りないというか、明白に自分の主張をしない人物に見える。特に「妻からの伝言」(マタイ27:19)によって逃げ腰になる姿などが印象的である。ピラトは妻に対して頭が上がらないかったようで、それもそのはずピラトの妻はローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの孫であった。その意味では妻の威光によってユダヤの総督の地位を獲得したのであろうと思われる。
在任中のピラトは反ユダヤ的な思想を強くもっており、ユダヤ人やサマリア人にかなり残酷な迫害をしたといわれている。特に神殿の祭祀に対しては侮辱的、挑発的な姿勢が顕著であった。そのためユダヤ人の対ローマ感情を悪化させた。それが最後には彼の命取りとなり、サマリア人の不当な殺害を理由にシリアの総督に直訴され、罷免されたという。
さて、使徒信経の中にポンティオ・ピラトの名前が記録されているということは、キリスト教信仰が現実の歴史と無関係ではないということ。もっと厳密に言うと、ポンティオ・ピラトというローマの皇帝の時代に実際に起こった出来事が信仰の中心にあるということに他ならない。キリスト教信仰とは一人の宗教的天才の頭の中で生まれ、そこから出て来た思想ではなく、リアルな歴史的出来事に基づく宗教である。この基づくということが「一種のアンカー(錨)」となっている。つまりキリスト教信仰が歴史的な出来事から遊離し、観念化し、一つの理念(教え))になってしまわないようにする重しの役割を果たしている。キリスト教信仰とは理念ではなく事実である。
4つの福音書を通じて、イエスの出来事(受難物語を除く)の中で歴史的な出来事と関連することはここにしかない。何気なく、「あの時、あそこで、こんなことがあった」という証言が歴史に対する一つの存在証明(アリバイの反対)となっている。それが今日の出来事である。

2. テキスト
本日のテキストは2つの部分に分かれている。1節から5節までは、最近起こったとされる2つの事件が取り上げられている。一つはローマの総督ピラトによるガリラヤ人弾圧の件、もう一つはシロアムの塔が倒れエルサレムの住人18人が命を失ったという事件である。これら2つの事件はそれぞれ「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」という同じ文章で締めくくられている。これらの記事はルカのオリジナルであろう。
ところでここで言う「悔い改め」とは何を意味しているのであろう。注意すべき言葉は「皆同じように滅んでしまう」という言葉と組み合わされている。それではピラトの弾圧によって殺された人たちは「悔い改めなければならない何か」があったのだろうか。あるいは悔い改めておれば、シロアムの塔が倒れたときにも滅びなかったのであろうか。彼らは何か悔い改めるべき何かの罪を犯していたから、死んでしまったというのだろうか。他の箇所においてイエスの中にはそういう思想は全く見られない。むしろここで重要な点は、世間では彼らが他の人びとより罪深かったのだという判断が見られるが、それに対してイエスは断固として「決してそうではない」という。それを断固否定した人間がまだ唇の乾かないうちに「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」などというはずがない。「決してそうではない」という言葉と「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」という言葉とは全く異なった思想に基づいている。おそらく「~~さんよりも~~さんの方が罪深いか」という言葉を聞くと、反射的に、「全人類は罪人であるから、誰でも悔い改めなければ救われない」という図式が頭に浮かぶワンパターン神学の弊害であろう。(註:これがルカ神学の欠点)むしろイエスの「決してそうではない」という強い否定の言葉には災害や事故の犠牲者に対して、あるいはたまたまその犠牲者にならなかったことについて、罪とか悔い改めという言葉を持ち出してはならないということが強調されている。
後半の6節から9節は「実のならないいちじくの木」の譬えで、ここではいちじくの「実」が何を指すのか問題となる。一応直前の物語から見ると13:5の「悔い改め」を意味するように思われるが、むしろ13:1ー5は「たまたまもたらされたニュース」の挿入と見ると、その前の段落(12:59)を受け、「自分で判断できる」ようになることと見なすほうが妥当であろう。いちじくの木が成長して実がなるというプロセスを考えると後者の方が筋が通るように思われる。この記事はマルコ福音書11:12ー14(マタイ21:18ー22)を土台にしてルカが書き改めたものと思われる。マルコ福音書ではイエスがエルサレム入りをした後のベタニア付近での出来事とされている。マルコおよびマタイ福音書ではいちじくの木を呪い、枯らしてしまう奇跡的行為として描かれ、信仰をもって祈ればこういうことも可能なのだと教えとして述べられている。ルカは奇跡物語を排除して、時と場所とを特定しないで「自分で判断できる」ようになることを期待して待つ者の例話としている。

3. 「ちょうどそのとき」
イエスが群衆に向かって、明日の天気を判断することができるのに「時代の状況」を判断することができないことについて語り、また裁判問題が起こってきたときに、「何が正しいことか判断することができなくて示談を拒否して不利になった人のこと」について語り、「あなたがたは、何が正しいのかを、どうして自分で判断しないのか」と語っている「ちょうどそのとき」である。タイミングよくというか、イエスのメッセージにピッタリの出来事というか、緊急のニュースが飛び込んできた。
ピラトがガリラヤ人の血が生け贄に混ぜたという情報である。これはあまりにもよくできた話なので、おそらくルカがその話をここで取り入れたのであろう。実は、この種のことはガリラヤではしょっちゅう起こっていたらしい。この背景にはローマによるユダヤ人支配に抵抗を示す闘争があった。特にこの抵抗運動の拠点がガリラヤにあったと思われる。総督ピラトはガリラヤ地方の人々を弾圧し、虐殺し、その運動をつぶそうと謀っていた。まさに、その「見せしめ」として一部のガリラヤ人を逮捕し、虐殺したのである。
ガリラヤ人殺戮という事件は、まさにその時代の問題でありユダヤ人全体の民族問題であった。決して殺された人々だけの問題ではなかったはずである。しかし人々はそのようには受け取らなかった。人々は彼らが過激すぎたのだと判断したのであろう。イエスはここでそのような判断そのものを批判している。
さて、この問題についてあなたはどう思うか。どう判断するか。
ただ非常に気になることは、イエスの批判は弾圧するローマ側には向けられず、殺戮された人々を「罪深い者」と見ている視点である。それは厳密にはイエスの視点というよりも、ローマ社会で生き延びようとするキリスト教会の状況におけるルカの視点であろう。ルカの文書ではローマに対する批判は抑制されている。
私たちはルカの「意見」をも含めて、この問題をどう考えるのか。

4. シロアムの塔の倒壊事故
続いて今度はイエスの方から最近のもう一つの事件が取り上げられる。エルサレムの市内にあるシロアムの塔が倒れて18人が死んだという。恐らくこれは先ほどの事件に対してエルサレムに住んでいるユダヤ民族の指導層たちが何も手を出さず見殺しにしたということに対するガリラヤ人による報復テロであったと想像される。しかしこのテロによって亡くなった人々は一般の人々であった。この災難に遇った人々に何か特別な理由があったわけではない。いわば「とばっちり」であった。こういうことは現在でも中近東において日常的に起こっている。
私たちはこのようなニュースを聞くとき、そのことを私たちの生活とは無関係な出来事、あるいは、そういう災害に巻き込まれなかったことで「よかった」と胸をなで下ろす程度の反応しかできない。しかしイエスは問う。あの事件の犠牲者「18人」はエルサレムに住んでいる他の人々よりも罪深かったのだろうか。そうではない。
あなたはこの問題をどう考えるか、どう判断するか。
あなた自身の判断が下される前に、イエスは一つの間違った判断を紹介し批判をしている。
イエスは当時の人びとが「災害」を「神の罰」と考える発想を批判している。この発想においては、事件に遭遇した人々と、事件と無関係の自分とを切り離し、災害を免れた自分は「神の罰」と無関係であると安心する。イエスはそのような考えを批判する。災害を受けなかったということは、災害を受けた人よりも罪が少ないというのではなく、強いて言うなら、たまたま免れたというだけのことである。それ以上でもなく、それ以下でもない。

5. 情報社会ということ
さて、以上が本日のテキストの主旨であろう。このテキストはまさに「その時代」のものである。今進行しつつある状況に対するイエスの言葉である。その言葉は「わたしたちの今」に対してどういうメッセージになるのだろうか。毎日毎日、尽きることなく新聞やテレビで流されてくるニュース、それらのニュースの背後には一つ一つ事件がある。阪神淡路地震、東北大震災、熊本大地震などなど。最近ではほとんど無意味な殺人、詐欺、強盗など人間が起こす雑多な事件もある。人災なのか自然災害なのか曖昧な原発爆発事故もあれば、交通事故も不条理である。もちろん悪いことばかりではない。中には喜ばしいニュースもある。それら一つ一つのニュースについて私たちはどう思うのかが問われている。
さて、私たちがそれらの事件や事故、あるいは喜ばしい出来事の当事者になることは希であり、またよほどのことがない限り、私たちがその出来事の目撃者になることもめったにない。それらのニュースは誰かを媒介にして伝えられる。イエスの場合、「何人かの人が来て」(13:1)事件を伝えている。おそらくシロアムの事故も誰かが伝えたに違いない。重要なニュースは誰かを媒介にして伝えられる。ということは、いくら重要であっても伝えられない場合もあるということを意味しているし、伝えられたニュースの正確さも問題になる。
現代社会の最大の問題の一つはニュースの伝達の問題である。これが「今」の問題である。私たちに届く情報のほとんどすべては誰かの手を経ている。つまり誰かの判断というフィルターを通して伝えられている。場合によっては意図的に間違った情報を流したり、無かったことをあたかもあったかのように偽装して送られてくる。だから、この時代に住んでいる私たちは事柄そのものへの判断をする前に情報の真偽を確かめる必要がある。
先日もある本を読んでいたら、こんなことが書かれていた。
アメリカにおける9.11の後、ブッシュ大統領によってテロの首謀者であると名指しされたサダム・フセイン(イラク共和国大統領)は大量破壊兵器を所有しているという理由で処刑された。この時、 アメリカのテレビ局(CNN) によってバグダットにあるフセインの銅像が大勢の市民によって行き倒される映像が全世界に流された。私もその時フセイン像の上で踊っている男の映像を今でも覚えている。その時画面の下に流れるテロップには、「独裁者の消滅と、手にした自由に喜びの声を上げる市民」の文字でした。その時確かに一つの事件が終わったと思った。
しかしこれが後に、ワシントンポストという新聞によって「やらせだ」と批判される。大勢の市民がバグダット解放を祝ったと報道される一方、実際に銅像の周りにいるのは報道陣と米兵に囲まれた数十人だけ、広場の周囲には米軍の戦車が包囲し、他の市民から隔離していたという。(参照『政府は必ず嘘をつく』113頁)あの映像はそのようにして作られていた。日本でも福島県における東電原発の事故の情報隠しは今やすべての日本人が知っていることである。テレビから流れてくる映像はほとんどすべて何らかの編集加工を経ていると考えて間違いない。

6.日本人のマスコミ依存度(「鵜呑み度」)
日本リサーチセンターが実施し2000 年に公表した調査によると、マスコミへの依存度はドイツでは36%、カナダで36%、フランスで35%、イタリアで34%、ロシアで29%、アメリカで26%、イギリスで14%で、それらの先進諸国に比べて日本人は70%以上という結果である。いかに日本人がマスコミの報道を鵜呑みにしているのかが分かる。日本人の結果と近い国としてはフィリピンが70%、韓国が65%、中国が64%、ナイジェリアが63%、インドが60%となっている。これらの国々でのマスコミの普及状況を考慮すると日本国民の70%以上という数字の異常さが明白になる。
他の調査機関の結果もほぼ同様である。米国の著名な世論調査会社、ギャラップ社の調査によっても日本国民の73%~74%が新聞、テレビなどのマスメディアを信頼するとなっている。
さらに、公益財団法人新聞通信調査会による全国世論調査の結果を発表したが、各メディアの情報の信頼度に関する質問で「全面的に信頼している」を100点とした場合、 NHKテレビが74点、新聞が71点、民放テレビは64点であった。
さらに驚くべき調査がある。日本リサーチセンターでは同じ調査を5年に一度行われているが、2005年調査を2000年と比較して見ると、日本は70.2%から72.5%と鵜呑み度を上げているが他の先進国では、ドイツは35.6から28.6%、米国は26.3から23.4%、英国は14.2から12.5%とほとんどすべてポイントを下げている。韓国でも64.9から61.7%、中国も64.3から58.4%と大幅に鵜呑み度を下げている。
これらの数字は一体何を意味するのだろうか。喜ばしいことなのか、心配事なのか。実際に日本の新聞やテレビの状況を知っている者としては、情けなくなる。まさに、イエスが譬えで語っているように日本の状況は「実のないいちじく」状況である。情報は溢れるほど流れているのに、そこから人間の声が聞こえてこない。危険だといわれれば危険だと答え、安全だといわれたら安全だという声が返ってくる。マスメディアで発信されたままの言葉がエコーのように響くだけである。一人ひとりの国民の「生きた声」が聞こえてこない。私が「今」聞きたいのは、誘導された群衆の叫びではなく、小さな子供の「王さまは裸だ」という声である。この小さな声が一つ一つ繋がって大きな声になったとき社会は変わる。

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