ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第13主日(特定15)(2018.8.19)

2018-08-17 09:25:27 | 説教
断想:聖霊降臨後第13主日(特定15)(2018.8.19)

イエスを食べる(聖餐式) ヨハネ6:53~59

<テキスト、教会的編集者、59節のみ原本>
53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
<以上>

1. 「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4:4)
「人はパンだけで生きるものではない」。これはイエスの有名な言葉であり、多くの人々はこの言葉を聞いてその通りだと思う。確かに人間は他の動物と同様にパンなしには生きれらない。しかし人間はパンが十分に与えられたら、それだけで満足のいく生き方ができるのか、と問われたらその答えは明白である。イエスが「人は」と言うとき、それはすべての人を含む。有能な人、賢い人、恵まれた環境の中で生まれた人だけではない。人間が人間である限り、人種、性別、年齢、経済力に関係なく、すべての人間がそこに含まれている。人間がただ人間であるというだけで「パンだけで生きられるものではない」。それが人間という存在の本質である。
それではパンの他に何が必要なのだろうか。イエスの「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉はあまりにも高尚過ぎて、その意味を十分に理解するのは難しい。ここから直接に宗教の世界に飛び込むのは無茶である。第1に、「神の口か出る一つ一つの言葉」という言葉が意味する内容はあまりにも曖昧である。その意味では、むしろ逆に私たちはパンだけでは生きられないので「神の口から出る一つ一つの言葉」を求めて一生懸命生きていると言った方が素直であろう。その意味では、「神の口から出る言葉」とは、肉体の餓えを満たすこのパン以外の、それよりももっと高尚な「別のパン」、精神や魂の餓えを癒やすパンである。
ある人々はそれを芸術に求める。学術、知るということにそれを求める人もいる。何かを作り出す労働にそれを求める人もいる。体力の限界に挑戦することを生き甲斐とする人もいる。趣味の世界にそれを求める人もいる。しかし、ある日、ある時、それらはすべては結局、パンに関わるものであることに気付き、目標を失う。パン以外に必要な何かということを求めつつ、結局堂々巡りをしてパンに戻ってくる。
田川建三さんは「人は何ために生きるか」(「宗教とは何か(上)」洋泉社新書)において、「人は何のためにいきるか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのようにたずねる事自体間違っている、と答えてすませておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、敢えて鮮明に、我々は食って寝ることによって生きる、と答える」(20頁)と言う。田川先生が仰るからその通りだというのではなく、いくらこの答えに反論しようとしても、現在の私はこの答え以上の答えを出すことができない。

2. あなたがたの知らない水
この問題と直接関係するかどうか明白ではないが、イエスの言葉で面白い言葉がある。「私にはあなた方の知らない食べ物があるのです」(ヨハネ4:32)。「人はパンだけで生きるものではない」と語った同じイエスの言葉である。これらの言葉を組み合わせて考えると、なかなか含蓄がある。この目の前にあるパンだけで生きるのではなく、私には「別のパン」がある。まさか食パンだけではなくレモンパンもあるという意味ではなかろう。この言葉はいわゆるサマリアの婦人との「生命の水」をめぐる会話の後、弟子たちが食事の準備をして、イエスのもとに来て「食事の準備ができました」と言ったときに、イエスが語った言葉である。この言葉を聞いて、弟子たちは「誰かが食べ物をもってきたのだろうか」(ヨハネ4:33)などと議論をしている。それに対して、イエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と答えられている。この答えは非常に「模範的」で「信仰的」である。むしろ信仰的すぎると言っていい。しかし、ここでイエスが語っていることの内容を検討すると、要するに井戸端でのサマリアの婦人との会話が、「あなたがたの知らない食べ物」を意味していることは明白で、端的に言ってしまえば、あの婦人と出会い、言葉を交わしたことで、私の心は満足し、お腹がすいていない」ということであろう。
それ程イエスを満足させた会話の内容とは何か。会話はまずイエスがサマリアの婦人に「水を飲ませてください」と頼むところから始まる。当時の井戸には常設のつるべなどの設備はなく、村人がそれぞれつるべを持ち井戸の水を汲みに来ていたらしい。つるべがなければ旅人はその水を飲むことができない。その意味では、この水は村人が独占しているものであった。イエスに対して優位に立つサマリアの婦人は少し井戸自慢をして、嫌がらせを言う。それを聞いて、イエスの方も黙っていない。あなたがたがそれ程自慢している水であったとしても、それを独占している限り、いくらその水を飲んでも、時間がたてば、また渇くだろう。いくら井戸を自慢しても、所詮井戸水というものでは人間は満足できるものではない。しかし私が持っている水は一度飲めば、もう永遠に繰り返し飲まなくて済むような水だ、と言う。ここでは明らかに「この水」と「わたしの水」とが対比されている。それは「このパン」と「わたしのパン」との対比と類比される。サマリアの婦人はイエスの与える水を飲んだ。おそらく彼女はイエスが与える水を飲む前に、イエスにこの水を飲ませたのであろう。イエスも彼女が与えてくれた水で満足したことだろう。蛇足的説明を加えると、サマリアの婦人は井戸から水を汲み上げ、イエスに分かち与えることによって、「イエスの水(永遠の生命に至る水)」を飲んだ。「この水」と「わたしの水」との根本的な違いは、「独占」と「分与」である。

3. 食べること
田川さんは「我々は食って寝るために生きる」と言い切った。この言葉だけを聞くと、そんなんでいいのという気がしてくる。しかし現実をよく見て、考えると「食って寝る」ということはそんなに軽やかで、簡単なことではない。今、目の前に飢えて死んでいこうとしている人を見て、私たちは軽やかにパンを食べることができるのか。そんなパンは、ただ美味くないというだけではなく、食べたその次の瞬間から餓えが始まる。食べても食べてもそれだけでは決して満足できない。食べるための努力というものは非常に重い課題である。問題を明白にするために極端なことを言うと、全世界からひとりも飢え死にする人がなくなるまで私たちはパンを分かち合う覚悟が必要である。しかし現実に起こっていることは一部の金持ちが多数の貧しい人々のわずかの食料を搾取しているのではないか。

4.寝ること
ついでに「寝る」ということについても一言述べておきたい。夜、もちろん夜だけではないが、人が安心して安息し寝ることのできる場所を確保することは至難の業になっている。天皇の家族が京都御所に宿泊するときの警護の物々しさは滑稽でもあるが、安心して安息できるねぐらを確保するということは、一般の庶民にとっては非常に難しい。夜中中、鳴り響く騒音は最早日常化し、文句を言う人さえ少ない。それよりも、何時爆弾が頭の上に落ちてくるのかという不安の中で怯えて夜を過ごす人がひとりでもいる限り、「寝る」ということも重い課題になっている。戦争や、テロを始め、さまざまな自然災害から私たちのねぐらを守るために、災害学を研究し、それを実現するために一生を捧げている人々の努力も「パンの問題」同様、尊い仕事である。
「我々は食って寝るために生きる」という事実を軽く見てはいけない。「食って寝る」ということが充実していれば、それで満足すべきである。それを実現するために生きる。それだけで私たちの人生は十分に価値がある。

5. 聖餐式の秘儀
本日のテキストでは、キリストの体を食べ、キリストの血を飲むということが4回も繰り返されている。字面だけを読んでいると、残酷というか、何か凄惨な感じさえする。キリスト教が日本に伝えられた初期のころ、まだキリシタンと呼ばれていたころ、キリシタンは子どもを殺して食べ、血を飲むというように誤解され、恐れられたという話しが伝わっている。これは、明らかに誤解であるが、本日のテキストの字面だけ読むとそうした誤解もやむを得ない感じもする。要するに、聖餐式とはキリストの体を食し、血を飲み、キリストと一体になる儀式であるが、どういう意味でキリストと一体になるのかということについては説明が必要であろう。
私は、聖餐式とは一つのパンをすべての人と共に分かち合うことの象徴的儀式である、と考える。聖餐式とは、キリスト教信仰のすべての局面を含む一大コンプレックス(複合体)であるから、簡単にその一局面だけを取り上げて論じることは危険であるが、敢えて言うなら、聖餐式とは全世界のすべての人が、キリストというパンを「裂き」「分かち合って食する」祝宴である。しかし、現実に教会において行われている聖餐式では、「聖」の局面だけが大きく取り上げられて、そのパンに与る権利を信徒だけが独占している。もっとも、この「分かち合う心」がない人にとっては、その儀式そのものが無意味であり、その人々にとっては聖餐式のパンは決してキリストの体ではなく、ただ単なる物質としてのウェハーにすぎないだろう。従って、聖餐式に与ったところでたいした意味はないことではある。その意味では、聖餐式に与る人を「わかっている人だけ」に限定するのにも一定の意味はある。しかし、同時に日々、聖餐式に与り、キリストを食しているのに、現実のパンを独占し、貧しい人々と分かち合うことがなければ、聖餐式は現実離れした宗教ゴッコに堕してしまう。

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