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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第8主日(特定10)(2018.7.15)

2018-07-13 08:56:55 | 説教
断想:聖霊降臨後第8主日(特定10)(2018.7.15)

派遣   マルコ6:7~13

<テキスト、超超訳>
イエスは12弟子を呼び集め、2人づつ組にして、彼らに悪霊を制する権威を与え、各地に遣わされました。その際に、1本の杖以外に何も持たせず、食料も、鞄も、財布の中にはお金も持たせず、ただ簡素な履き物だけで、着替え用の下着もなしでした。そして彼らに言われました、「どこへ行っても、一軒の家に入ったら、その土地を去るまでは、そこに留まりなさい。また、あなたがたを歓迎せず、あなたがたの話を聞きもしない所がありましたら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしとして足の裏の塵を払い落しなさい」。
そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大勢の病人に油を塗って癒やしました
<以上>

1. 遊行のイエス
本日のテキストの直前にこういう言葉がある。「それでもイエスはなお、近隣の村々を巡回し、教えられました」(6:6b)。この言葉は先週取り上げた「故郷での出来事」を締めくくる言葉であるが、同時に7節以降の12弟子の派遣の出来事へつなぐ編集句である。
村々を巡り歩き、「宣教し、悪霊を追い出し」(マルコ1:39)、「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6:6b)という姿が福音書、特にマルコが描くイエスの普段の姿である。マルコにはないが、マタイやルカは「狐には穴あり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」(マタイ8:20、ルカ9:58)という言葉が記録されている。つまりイエスは住所不定で、病人のいるところ、飼う者なき羊のいるところを巡回し、教え、悪霊を追放する霊能者であった。
私たちは福音書の中でのイエスしか知らないが、イエスという人物を地中海世界という広がりの中で描いたのが、山形孝夫氏の「治癒神イエスの誕生」(小学館創造選書、1981)で、非常に説得力のある作品である。「治癒神」という表現にとまどいを感じるかも知れないが、たとえば使徒言行録14章8以下で描かれている情景を見ると、病気を癒やす能力を持つ者を神に祭り上げ、供え物をするということは、それ程特異なことではなかったようであり、イエスを「治癒神」と呼ぶことにそれ程抵抗感を持つ必要もないであろう。
遊行する治癒神は当時広く見られた現象で、その中でも最も有名な治癒神はアスクレビオスと呼ばれる神であった。イエスの時代、ヘレニズム社会において最も活発に活動していたのがアスクレビオス神で、次々とオリンポスの神々の神殿を乗っ取り、勢力を拡大していたようである。この神の特徴は神殿内において医師を養成し、彼らを各地に派遣して病気の癒しを行っていたことである。当時、病気といえば加持祈祷による癒ししか知らなかった時代において、彼らは主に外科的切開手術によって病気を癒やし、その成果は画期的であったと思われる。有名な古代ギリシャの名医ヒュポクラテスはこのアスクレビオス医師団の出身であるといわれている。
G.タイセンは「イエス運動の社会学──原始キリスト教成立史によせて」(ヨルダン社、1981)において、原始キリスト教の巡回霊能者たちをギリシャ哲学の犬儒(キュニコス)学派の哲学者たちと類似していたという(同書、39頁)。キュニコス学派においては、「無一物の者、つまり裸で家屋敷なく、保護なく、下僕なく、祖国もない者」こそが真の幸せな者であるという哲学的主張を持っていた。ここにイエスの生き方と共通するものがあることは否定できない。
イエスの生き方をアスクレビオス信仰における遊行と比較するにせよ、あるいはキュニコス哲学における巡回哲学者と共通点を見出すにせよ、イエスの生き方の基本的なスタイルは、村や、町を巡回して、説教をしたり病人を癒やしたりするものであった。

2. イエスに従う者
イエスの弟子たちには当然イエスの生き方に従うことが要求された。というよりもイエスと共に生活しているときには常に遊行の状態であったことだろうから、特別にそういう風に命令されることもなかったに違いない。家を捨て、家族から別れ、枕する所もなく、余分な食料を備蓄することもなく、旅から旅へという生活が普段の生活であった。
従って8節から11節において語られていることは、原始キリスト教会において巡回する伝道者たちへの規定が濃厚に反映しているように思う。注目すべき点は、12節ではその旅の目的が「悔い改めの宣教」とされ、悪霊追放や病気治療への言及がないことで、マルコは7節と13節の編集句によってそれを補っている。

3. 原始教会における巡回伝道者の姿
この規定において先ず注意を引き点は、旅の出発点と目的地とが前提され、移動に関する規定と、目的地における規定とが別々に述べられている点である。
先ず、移動に関する規定が次のように述べられる。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8~9)。資料的な分析は専門家に任せておくとして、ここでは要するに、護身用の杖とサンダルとが必需品としてあげられているだけで、食料とかお金とか、着替えとかは現地調達をせよということであろう。現地調達といってもお金を払って買うということは禁止されているのであって、原則的には説教をしたり、病人を癒やしたりすることによって調達せよ、ということである。これは現実的にはかなり厳しい規定である。もし食料が得られなければ食べないで済まさなければならない。あるいは乞食をしなければならない。
この規定をよく読むと、イエスと弟子たちとの遊行とは牧歌的な霊能者の旅というよりも、かなり制度化された派遣という色彩が強いように思われる。つまり伝道者自身の生き方としての「遊行」ではなく、中央から地方への派遣である。従って、その旅は点から点への移動である。従って、マルコより後に書かれたルカ福音書では、「途中でだれにも挨拶するな」(ルカ10:4)という規定が付加され、その点がより明瞭になる。

4. 中央と地方
伝道者の巡回ということが制度的に成り立つためには、中央における宣教戦略と地方の方おけるある程度の受け入れ態勢が前提になっている。 10節の「どこへ行っても、一軒の家に入ったら、その土地を去るまでは、そこに留まりなさい」という規定は意味深長である。含蓄のある規定であるが、要するに待遇の良し悪しについて、文句を言ってはならないということであろう。その点では100パーセント現地任せという姿勢である。
11節の規定だけが、現地側の受け入れ態勢に対する伝道者側の反応である。「また、あなたがたを歓迎せず、あなたがたの話を聞きもしない所がありましたら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしとして足の裏の塵を払い落しなさい」。もし歓迎されないならば、あるいは「あなたがたに耳を傾けようとしないならば」、呪って出てこいという規定である。ここには中央と地方との権威の落差が示唆されている。
この規定が意味する基本的な点は、巡回伝道者の生活の経済的な面はすべて「現地」でまかなえということであり、その意味することは要するに、伝道者を迎えた現地の人々が巡回伝道者の生活の面倒を見よ、ということであった。つまり巡回伝道者の倫理は同時に彼を迎える信徒たちの倫理でもあった。 その様な背景を理解したときに、「どこへ行っても、一軒の家に入ったら、その土地を去るまでは、そこに留まりなさい」(10)という規定の意味が明白になる。この意味することは、伝道者を迎えた教会が準備した生活に文句を付けてはならない、あるいは「より豊かな生活」を求めて「移ってはならない」ということであろう。

5. 伝道者の質の問題
さて、以上の様な点が巡回伝道者を迎える教会と巡回伝道者の規律の問題であろうが、この様な関係において、より根本的な問題がここに隠されている。つまり派遣された伝道者の側の問題としては、伝道者自身の資質の問題、特に霊的な力の問題であり、彼を迎える教会側の問題としては、伝道者を迎える姿勢の問題である。
7節には「汚れた霊に対する権能を授け」とある。伝道者が信徒たちから「受け入れられる」のはこの「権能を持っている」からである。しかし、すべての伝道者が同じように「権能」を持っていたとは考えられない。また、同じ伝道者にしても常に同じ様な権能を発揮できるとは限らない。時には無能なただの人にすぎないときもある。マルコ9章18節、28節では無能な弟子たちの姿が記録されている。派遣する伝道者のレベルの維持という問題は、特に教区のレベルでは重要な問題である。この点をないがしろにするときに、教会は生命を失う。
同様に、また派遣された伝道者を迎える教会側にも重要な問題がある。誤解されることを恐れずに聖書が語ろうとしている点を明白にすれば、派遣された伝道者の質の如何を問わず、その伝道者を「迎えるか、拒否するか」ということによって、その教会がキリストの枝として認められるか否かが決定される。
「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、派遣した人々(「主教」または「母教会」)に報告の上、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。この「足の裏の埃を払い落とす」という仕草は、ユダヤ人が異邦の地から帰国したときの象徴的な行動でで、要するに、今までいた場所は私たちとは無関係の所であった、ということを示す儀式である。伝道者が派遣された場所で、派遣した本部(「主教」とか「母教会」)を思い起こす、(具体的には
祈るということ)、それがその集団との生きた関係「教会の枝」であるこたが認められる。

6. 状況
マルコは「12人」の派遣について述べるに際して、原始教会において流布されていた「派遣のマニュアル」を資料として採用する。それが、8節から12節までの文章である。そこでは明らかに「派遣する者」(中央教会)、「派遣される者」(伝道者)、そしてそれを受け入れる者(地方教会)との関係が前提とされている。当然イエスと弟子たちとが遊行していた時代とはかなり状況が異なる。そこでマルコはその違いを示すために、派遣と帰還との間にイエスの時代の状況を示す一つのエピソードとしてヨハネの殉死の記事を挿入する。おそらく派遣のマニュアルの原型はイエスの時代にまで遡ることはできるのであろうが、実際にはかなり形骸化していたものと思われる。
そういう視点から、この個所を読み返すと「十二人は出かけて行って」(12)というマルコの編集句は意味を持つ。弟子たち12人は皆イエスから派遣されて出かけ、イエスが行く(であろう)所に出かけ、イエスが行うであろうことを行い、イエスが語るであろうことを語っていたのである。その意味でイエスは派遣されている者たちと共にいる。ところが原始教会では派遣した者がイエスと共にエルサレム教会に残っている。派遣される者よりも残っている者の方が威張っているではないか、という批判が込められているように感じる。

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