ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/12/27~12/31

2015-12-31 12:08:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/12/27~12/31

2015日々の聖句 12月27日(日)
主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。主なるわたしではないか。」(出エジプト4:11)

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。(ヨハネ15:16)

私の黙想:
ファラオの王宮を逃げ出したモーセ、ミディアンの野の祭司のもとで保護され、祭司の娘とも結婚し、穏やかな日々を送っていた。これで死ぬまで、それなりに満足に生きていけると予想していたことであろう。
そのモーセに神(ヤハウェ)は呼びかけ、イスラエルの同胞をエジプトから救出する使命を与えた。そのためには先ずファラオの元に帰り、そのことを交渉しなければならなかった。それはモーセにとっては最も嫌な任務であったのであろう。モーセは神に、私は口下手でそのような任務には到底向いていないと断る。その時、神がモーセを説得するために語られた言葉が今日の聖句である。人間世界で言うと、「お前がこうして良い生活をしておられるのは、誰のお陰だと思っているんだ」というヤクザのセリフに近い恫喝である。神が本気の時はここまで言うのかという典型的なケースである。
まさかイエスが神のもとからこの世に派遣されるとき、渋るイエスに、父なる神はこんなセリフで説得したのかな、などと思う。

2015日々の聖句 12月28日(月)
わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。(ヨシュア24:24)

主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(1コリント15:58)

私の黙想:
出エジプトしたイスラエルの民、万端整い、いよいよ「約束の地、カナン」での新しい生活を始める第1歩、モーセの後継者ヨシュアは民全体を集めて問いかける。
「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」。さぁ、イエスかノーか。川向こうの生活を選ぶか、これからの新しい生活を選ぶか。それは神を選ぶと言うことを意味していた。生活の選択とは宗教の選択でもある。あっちがいいか、こっちがいいか。あっちの生活は既に経験済みであり、慣れ親しんでいる。こっちの生活は、どうなるかわからない未知の生活である。さ、どっちを選ぶか、今日、自分で、自由に選べ。ヨシュアは民全体に呼びかける。その時、ヨシュアは言う。「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」。これを文語訳では「我と我家とは共にエホバに事えん」と訳している。これをわざわざ文語訳を出したのは、実は、この御言葉が私の両親が結婚するときに共に誓い合った言葉だからである。母は何かあると、古びた結婚写真を取りだし、この話を繰り返す。両親がこの御言葉によって結ばれ、その結果私たち兄弟は生まれた。いわば、この聖句は私の出自を示す言葉である。これを否定したら、私という存在が消える。

2015日々の聖句 12月29日(火)
神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる。(ダニエル2:21)

無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(エフェソ5:17)

私の黙想:
バビロンの王、ネブカドネツァルは夢を見た。その夢が語り意味がわからず、国中の占い師、賢者をすべて招集し夢を解説させたが、どの答えも満足できなかった。それで王は怒り彼らを皆殺しにせよと命令した。それを聞いたダニエルは王にもう少し時間的猶予を与えてくだされば、その夢を解きますといい、家に戻り、仲間たちと共に、神に祈った。その時の答えが、今日の聖句である。ダニエルの解説に満足した王はダニエルの願いを聞き入れバビロンの占い師、知者、賢者の皆殺しを阻止した。
今日の聖句の内容は、人間の歴史を支配しているのは「天の神」(ダニエル2:19)であることを知っているダニエルたちにとっては非常に単純で、当たり前のことである。実は信仰者の強さの秘密はここにある。

2015日々の聖句 12月30日(水)
打ち砕かれた心の人々を癒しその傷を包んでくださる。(詩147:3)

夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。(マタイ8:16)

私の黙想:
ここでの「打ち砕かれた心」とは他人から批判され、攻撃されて傷ついた状況である。その意味では51:19の「神の求めるいけにえ」としての「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれ悔いる心」とは全く異なる。51編の方は神の前での謙遜であるが、147編の方は文字通り人間関係の中で「砕かれ、傷つけられた心」である。この詩編では2節の「主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」という希望の祈りである。敗戦によって破壊された国土、そこから異国へと拉致された人々の心の傷。神はそれを回復してくださる。

2015日々の聖句 12月31日(木)
わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。(マラキ3:20)

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)

私の黙想:
2015年のローズンゲンも今日が最後で、明日の言葉はない。でも、心配ない。2016年版が既に準備されている。今年の年間聖句は「あなた方も互いに相手を受け入れなさい」(ロマ15:7)であった。どれだけ相手を受け入れることが出来たか。深く反省するのみ。来年2016年の年間聖句は「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66:13)だ。何か雰囲気がガラリと変わっている。これは何の符合だろう、と考えている。そして今日の聖句。「義の太陽が昇る」、新年に何か希望を感じさせる言葉である。しかし「その翼にはいやす力がある」。義の太陽が昇るその勢いを示す「翼」、実は、その「翼」は「癒す力」だという。新年は本当に「癒しの年」になるのか。
そして、新約聖書の聖句が心に響く。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

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