ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/12/20~12/26

2015-12-31 12:02:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/12/20~12/26

2015日々の聖句 12月20日(日)
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。(詩150:2)

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)

私の黙想:
クリスマスの出来事は「力強い御業」だろうか。「大きな御力」なのだろうか。モーセが杖をかざすと紅海が割れたような出スペクタクル来事ではない。バビロン捕囚から解放されて民族を上げて故郷に帰るような歴史的出来事でもない。むしろ誰も気が付かない、ひっそりとした、寂しい出来事である。まさに世界の何処にも居場所のない、見捨てられたような出来事である。赤色、青色のイルミネーションによって飾り立てられるようなお祭り騒ぎではない。だから、今日の聖句としては「ゆえに」がピンとこない。
この詩は何もクリスマスのための賛歌ではないから、この詩自体に文句を付けることはないが、何かしら、そんな気分になる。
確かに、あの夜、あの世界の片隅で起こった小さな小さな出来事が、全世界を巻き込む大きな出来事の始まりだった。

2015日々の聖句 12月21日(月)
飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。(イザヤ58:10)

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。(フィリピ4:5)

私の黙想:
ここの「心」はパンであろう。それをパンと言わずに「心」というところが奥ゆかしい。と、思って口語訳を見たらやはり「パン」と訳している。実際に配ったものは「あなたのパン」のであろう。口語訳では「あなたの」というところがニクい。面白くなってきてフランシスコ会訳をみたら、「飢える者のために尽くし」とあり、悪くはないが、一寸離れすぎ。新改訳は「心を配り」で新共同訳と同じだ。文語訳を開いていささか驚いた。「汝の霊魂(たましい)の欲するものを飢えたるもにほどこし」とある。これは一体どういう意味であろうか。おそらく原典レベルでいろいろ問題があるのであろうと想像する。
寒い日々が続く。この季節、路上生活者たちはどういう状況に置かれているのであろうか。心配だ。暖かい部屋の中でサンタクロースだの、プレゼントだの、ケーキなどと言って楽しんでいる窓の外に、一本のマッチで暖をとりならが夢の中で天国に迎えられて少女のことを思う。

2015日々の聖句 12月22日(火)
寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。(レビ19:33)

神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(ロマ15:7)

私の黙想:
今日は久し振りに新約聖書のテキストから「受け入れる」ということの高貴さを学ぶ。「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった」。何という気高さであろう。「相手を受け入れる」ということが、大切なことだとか、愛だとか、倫理だとか、義務だとかを超えて高貴な行為である。逆に「受け入れない」とか、「嫌々ながら」とか、「しぶしぶ」とかでは高貴さの逆、「卑しさ」を示す。
どういう事情で外国人が日本に住むようなったのか、その理由は色々あるだろう。そんな理由はここでは特に問わない。もし、事実、「寄留者」が私たちの生活圏に住んでいるならば、彼を虐げてはならない。この場合の「虐げる」とは幅が広い。寄留者がここに居ること自体が既に多くのハンディギャップを受けている。それだけに多くの苦労がある。気遣いもあるだろう。誤解もあるだろう。そういうこを全部含めて「虐げてはならない」のである。マイナス面をマナスのままで放置すること自体が虐げることになる。その意味では、同胞以上の配慮が必要である。それを徹底することによって「受け入れる」ということの高貴さが示される。

2015日々の聖句 12月23日(水)
わたしは、反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。(イザヤ65:2)

まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

私の黙想:
今朝も新約聖書の聖句から、父親が走り寄って首を抱き、接吻をしたのは、息子が罪の告白をする前であったということに注目する。神にとって人間の懺悔など関係ない。ただ「帰って来た」というだけで十分だ。
今日の聖句、日本のことを思うと、あまりにも生々しくて直視できない。それで、一寸視点をずらして、1節を読む。「わたしに尋ねようとしない者にもわたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいると言った」。今までも何回も読んだはずだが、今朝は強烈に私の心を打つ。これ程、聖書の神の姿勢を明確に表現している聖句を他に知らない。この言葉、何回、読み返しても、飽きない。

2015日々の聖句 12月24日(木)
お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:2)

天使はマリアに言った:マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)

私の黙想:
今日の新約聖書の聖句には重大な間違いがある。「天使はマリアに言った」ではなく、天使はヨセフに言った」である。
今日の聖句、神が人間の言葉に耳を傾けているのは、人間の罪である、という。人間の罪などで、神の御顔が隠れる、なんていうこともない。それを言うなら人間の罪が神のみ顔を見えなくしているのである。同様に、人間の罪の故に神は人間の願いを聞こうとしないのである。
人間の不幸は、人間の罪の結果である。そのことをこの節の前半で明白に語っている。「お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て(ている)」。この部分口語訳では明瞭だ。「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ」(1~2)。「御顔を隠れさせ」を「主の顔を覆った」と訳している。月が雲に隠れた闇夜にも、雲の上では月が輝いている。月が雲に隠れたという言い方は間違いだ。
クリスマスを告げる「星の光」、それが見えない人間は、人口の光で輝くしかない。イエスが生まれた馬小屋は薄暗かったに違いない。

2015日々の聖句 12月25日(金)
ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。(歴代誌上13:8)

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:20)

私の黙想:
有名な「ウザ打ち」の場面。前王の時代に粗末に扱われていた「神の筺」を丁重にエルサレム市内に迎入れ、神の幕屋に設置された時の喜びの賛美。ダビデ王は、これを王宮の近くに設置することによって政治と宗教との一体化を図った。そのことにより、ダビデ王の権力は宗教に対する王権の絶対服従という姿勢が表明された。ダビデは生涯この姿勢を崩さなかった。ここにダビデ王が全イスラエル史を貫いて、尊敬され、親しまれた理由がある。イエスはダビデのこの姿勢を継承する者として生まれた。

2015日々の聖句 12月26日(土)
空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。(エレミヤ8:7)

だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。(ヘブル2:1)

私の黙想:
空の鳥が季節を知っている。渡り鳥が移動の時季を感じ移動する。「しかし、わが民は」と預言者嘆く。「主の定めを知ろうとしない」。ここで人間の「知る」という能力と鳥たちの「知る」という能力とが比較されている。空を飛ぶこうのとりは、「春」とか「夏」と「秋」とか「冬」を知っているのだろうか。彼らはそんなことは知らない。人間は四季を学んで知る。人間の知識は学ぶことによって得られる。鳥たちは学ばなくても知っている。従って、そう簡単に「知る」ということで人間と鳥とを比較できない。ところが預言者は鳥と比較して、人間は知ろうとしない、あるいは知らないという。鳥たちにとって北から南へ、あるいは南から北へ移動するべきことを「本能的」に知っている。それが鳥たちに対する神の「定め」である。それと比較してここでは「神の定め」を理解しなくてはならないであろう。「神の定め」を律法を学び、あるいは憲法学の授業を受けて知ることであろうか。預言者が言いたいことはそういうことではないであろう。人間も自然を身体で感じ、自分の内奥から出てくる「知」がある。ロマ書でパウロは律法を知らない非ユダヤ人、いや全人類は 神について知りらなければならないことは、「彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(ロマ1:19~20)と言い、「このようなことを行う者が死に値するという『神の定め』(同32)を知っている」という。人間として知らなければならないことは全て、「学んで知る」のではなく、「生きて知る」。素直に生きていれば知っているはずだ。それなのに、知らないと言うことは、知っているはずなのに知らないという偽りの主張をしているだけである。

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