ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/06/07~06/13

2015-06-14 06:28:54 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/06/07~06/13

2015日々の聖句 06月07日(日)
あなたの国境に平和を置いてくださる。(詩147:14)
だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。(ロマ14:19)
私の黙想:
フランシスコ会訳では、この詩に「イスラエルを顧みられる全能の主」というタイトルを付けている。フランシスコ会訳の詩編全編につけられたタイトルは非常に便利だ。ただし、これは一種の解釈の押し付けになる。さらに、ウルガータ訳では11節までを詩146につけ12節以下を詩147としている、という訳注を付けている。そうすると、12節から20節までは、まさに古代イスラエルにおける「国歌」(National Anthem)の様相を示す。その主旨は、イスラエルは特別なんだという賛歌、何が特別かというと、主なる神との関係が特別だということになる。こうなると、この詩の読み方が、内側からと外側から違ってくる。特に今日の聖句の「国境」あるいは13節の「主はあなたの城門のかんぬきを堅固にする」という部分など、非常に独善的だ。しかし、国歌というものはそういうものだと思えば、そういうものなのだろう。
「国境に平和を置く」とは面白い表現だ。口語訳、フランシスコ会訳では「国境を安らかにし」、新改訳では「地境に平和を置き」、岩波訳では「領土に平安を置く」。具体的に考えると、国境線を隣接する諸国との間で相互に明白にしているということ、つまり相互が「領土問題はない」ということで一致しているということである。ところが双方が「領土問題がある」と言うとき、紛争が勃発し、平和はなくなる。また、こちらは「領土問題はない」といい、相手国は「領土問題がある」という場合も平和はない。

2015日々の聖句 06月08日(月)
子は父を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこにあるのか。(マラキ1:6)
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:11)
私の黙想:
子は父を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしはそんなことを言えない。むしろ、わたしが父であるなら、子供や孫たちから尊敬される父親でありたい。
私の思いはともかくとして、ここはヤハウェとイスラエルの民、とくに祭司たち、つまり民族の指導者たちとの関係である。ヤハウェから(つまり、預言者から)こう言われたら祭司たちはもうお終いである。ところが祭司たちはくちごたえをする。「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」、と。それでヤハウェ(実は預言者)は言う。「あなたたちは、わたしの祭壇に汚れたパンをささげておきながら我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは主の食卓は軽んじられてもよい、と言う」。
彼らはちっともわかっていない。彼らの本音は既に周知されているのに、彼らはそのことに気が付かない。いや、気が付いているのに、それを無視して、したい放題をしている。それで万軍の主は(ここでは「万軍の主」という言葉が効いている)言う。 「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうか」。あなたがたがわたしにしているのと同じことを、あなたがたが期待している宗主国に捧げても、宗主国は喜ぶであろうか」。現実は厳しいね。(「読者よ、悟れ」マルコ13:14)

2015日々の聖句 06月09日(火)
これらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)
あなたがたの教師はキリスト一人だけである。(マタイ23:10)
私の黙想:
「これらの国々」とはイスラエルの民が「侵入したカナンの地」の先住民である。イスラエルの民は武力によって彼らを「追い払おうとしている」が、結局、新しい地にの定着するためには、彼らから農業を学ばなければならなかった。その農業には宗教や慣習が密接に結びついている。今日の聖句はイスラエルの民の宗教家集団レビ族に対するヤハウェの命令である。彼らの任務は他民族の宗教や慣習からイスラエル宗教を守ることで、これはかなり難しい任務であった。
日本に近代的な西欧の技術文化、つまり西欧文明を受け入れつつ、その精神的基盤であるキリスト教は排除するという大問題があった。それが「和魂洋才」であった。それはキリスト教側でも大きな課題である。日本のキリスト者はその狭間に立ち、それぞれがその問題を抱え、取り組まねばならない。

2015日々の聖句 06月10日(水)
悪はわたしにからみつき、数えきれません。主よ、急いでわたしを助けてください。(詩40:13,14)
イエスの言葉:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
私の黙想:
11節までの穏やかな詩人の信仰生活。誰もが羨むほど幸せな信仰生活。そこには一点の曇りもない。今朝も、いつもと変わらなく、「主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく慈しみとまことによっていつもわたしをお守りください」(12節)と祈ったところだ。
そこに襲った突然の災い(13節以降)。天災ではない。明らかに人災だ。原因はわからない。詩人は神に対してSOSを発信する。ここでの「悪」とは「悪人」か、「悪巧みか」、「悪口」か。詩人はもがけばもがくほど、状況は悪くなる。もう、戦うことも放棄する。ただ、神へ「SOS」を発信するだけ。何と素直なSOSだろうか。

2015日々の聖句 06月11日(木)
神の言葉:わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。(詩50:15)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)
私の黙想:
「苦難・祈り・神の栄光」、この3点セット。私の苦難(不幸)が、神に祈ることによって、神の栄光を輝かす。この祈りは祈祷書にあるような美しい文章によって綴られた形式的な祈りである這うがない。泥まみれの中で、唸るような、言葉にならない呟き。ただ、その呟きが神に向けられる。それがここでの祈りである。今朝、この言葉を読んで直、思い起こしたのはヨハネ9:3のイエスの言葉だ。イエスはこの「生まれつきの盲人」の声なき声を聞かれたのであろう。この言葉はで質問した弟子たちへの答えというより、この男の「声なき声」に対する答えであったのだろう。ここには誰も気が付かない祈りがあった。
変な話、私はどこでどう間違ったのか、ここの「神の業が現れる」という句を「神の栄光が現れる」と覚えてしまった。覚えたというより、脳みそに刻み込まれてしまって、もはや修正が効かなくなってしまっている。まぁ、それでいいかと思っている。

2015日々の聖句 06月12日(金)
銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。(コヘレト5:9)
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブル13:5)
私の黙想:
今日の聖句、何かしらぎこちない。口語訳と比べてみるとそのぎこちなさは明白である。「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である」。このように主旨が単純明快な格言は、原語の正確さではなく、それを日常的に、誰にでもスッと入ってくる単純明快さが求められる。「飽く」とか「収益」というようなアクの強い言葉は相応しくない。また「銀」も良くない。それなら「金」では駄目なのか。「ダイヤモンド」ではとなり、あまりにも特定化してしまうと、この格言の意味が半減してしまうので、それよりは「金銭」は普遍性があっていい。同じように、「空である」では「哲学的すぎて」相応しくない。それよりは「空しいことだ」はよい。
同じ主旨のことを言うにしてもヘブル書の言葉では「満足しなさい」という「命令」になってしまうので好まれない。その意味では「空しい」は実感がこもっている。
何だかんだ、今朝の黙想は重箱の隅をほじくるようで、「朝の霊想」としては相応しくないものになってしまった。まぁ、コヘレトの言葉だから仕方がないか。

2015日々の聖句 06月13日(土)
わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。(詩30:3)
主にいやしていただくために、、互いのために祈りなさい。(ヤコブ5:16)
私の黙想:
信仰的立場を徹底すると、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31~33)という立場に到達する。しかし現実にはそこまで到達する信仰者はほとんどいない。そこで福音書記者ルカはこの言葉に「執拗に頼む人の譬え」(ルカ11:5~8)を付け加えている。ルカのこういうところが好きだ。ルカはマタイが「異邦人が切に求めるもの」と言ったことに反撥しているのか。「俺は確かに異邦人だぜ、悪かったな。だからあんたたちユダヤ人とは違って、執拗に祈るんだ」と異邦人ルカは言う。しかし、マタイはマタイで「カナンの女の話」を取り上げ、イエスに「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)と語らせている。こういう、人間的なやり取りは面白い。

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