ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ベケット『ゴドーを待ちながら』

2008-10-23 14:49:21 | ときのまにまに
箴 13:12 待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。

ベケットの「ゴドーを待ちながら」を読んでいると、こんな場面があった。
舞台の正面に2人の主人公、エストラゴンとヴラジーミルとが会話をしている。エストラゴンは靴を脱ごうとしているがなかなか脱げない。この状況が、この演技劇の最初の場面から続いている。1人ではなかなか脱げないのでエストラゴンはヴラジーミルに手伝ってくれと頼む。それから「痛いということについての会話の後、突然エストラゴンはヴラジーミルのズボンの前ボタンがはずれていることに気付き、それを指摘する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヴラジーミル (下を見て)ほんとだ。(ボタンをはめながら)小さいものでも野放しはいけない。
エストラゴン むりもないがね。おまえは、いつでも
、最後の瞬間までがまんしているんだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この「最後の瞬間」という言葉を聞いて、ヴラジミールは、突然、文脈とまったく関係なしに、夢見るように、「最後の瞬間」と叫び、しばらく瞑想に入ってしまう。そして、次の台詞が口から出てくる。
「まだまだだ、しかし、きっとすばらしいぞ。そういったのは誰だっけ?」

これだけを取り上げても、どういうことかわかってもらえないと思うが、全体を読んでいる者でも、この会話の不可解さはわかるわけではない。ともかく、このやりとりは前後関係とほとんど、まったく関係ないといえる。
この後、まったくこの台詞とは関係のないとりとめのない会話が続く。とにかく、この作品は全編、とりとめのない会話の連続であり、同じ台詞の繰り返しである。
哲学者鷲田清一氏は『「待つ」ということ」(角川選書)で、この『ゴドーを待ちながら』に触れ、次のように述べている。

<あまたの研究や解釈の中で言い古されてきたことだが、、『ゴドーを待ちながら』は、およそ演劇といわれるものの約束事をほとんど解除している。ドラマティックな盛り上がりや大団円はもちろんないし、筋らしい筋もなければ、演じられる行為の因果関係や論理的な脈ラムを追うのも困難だ。意味不明な長広舌があったり、無意味なのか意味深長なのかが判然としない言葉が噛み合わぬまま交わされたり、同じ台詞、同じ場面がくりかえされたり、難解というより不可解の連続だ。劇を駆動させる前提となるはずの過去もうかがいようがないというか、そもそも存在しない。場面の設定も、「いつ、どこ」でもいいというふうに不確定だ。>151頁

まったく、その通りである。普段ほとんど演劇作品を読んだことのない、わたしがわざわざこの書を取り寄せて読んだのは、鷲田氏のこの言葉による。この作品には非常に不可解であるが、読み出すとやめられない「変な魅力」がある。この書については、今後も取り上げることもあろうが、本日は、先にあげた「まだまだだ、しかし、きっとすばらしいぞ。そういったのは誰だっけ?」という台詞についてだけ、考えたい。

翻訳者で解説者もある高橋康也氏によると、この台詞はフランス語版によるもので、英語版では箴言13:12の前半の言葉が引用されている、とのことである。「待ち続けるだけでは心が病む」。New King Jamse訳によると「Hope deferred makes the heart sick」。直訳すると「引き延ばされた希望は、心を病気にする」。ちなみに、最も新しいToday's English Versionによると、「When hope is crushed, the heart is crushed」で、これも直訳すると、希望が破壊されると、心も破壊される」となる。どちらも、なかなか意味深長な感じがする。例によって、本当に意味深長なのかどうかは読者次第である。さて、この台詞に、「そういったのは誰だっけ?」という台詞なのか、ギャグなのか、観衆への言葉なのかわからない言葉が続く。解説者は、フランス語版の言葉は作者であるベケットが街で耳にした言葉であると解説する。そうすると、この言葉を言ったのは街の通行人ということになり、英語版の方は箴言の作者であるソロモン王ということになる。少なくとも、「そう言ったのは誰だっけ」という言葉を付けることによってこの台詞に対する観衆の意識を喚起していることは確かであろう。

フランス語版と英語版との台詞を比較してみると、面白いことに気がつく。フランス語版では、台詞の中に、希望が実現したときの喜びが含まれている。ところが、英語版ではそのことが省かれている。「省かれている」という意味は、箴言ではこの言葉は一種の対句になっており、前半だけが取り上げられ、後半が削除されているからである。後半はこう書かれている。新共同訳では「かなえられた望みは命の木」とある。NKJ訳では「But when the desire comes, it is a tree of life」、TEVでは「but a wish come true fills you with joy」。
英語版では12節の前半だけが取り上げられ、後半が省かれているのだろうか。高橋氏は「この肯定的な部分は故意か、偶然か引用されない」とだけ述べるにとどめている。

わたしは思う。箴言の言葉で用いられている「命の木」とは、創世記では「禁断の実」がなっている木を暗示し、神は罪を犯した人間が近づくことが出来ないように、剣の炎を持った天使に守らせておられる。いわば「命の木」とは人間が自分自身の努力によって近づくことが出来ない「救い」を意味している。従って、ここで述べられている究極の救済への願望は、待ち続けるだけで終わるのか。あるいは、最後には願望は達成されるのか。それが、この演劇の主題であろう。

最新の画像もっと見る