ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/11/25~12/1

2018-12-01 09:33:02 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/11/25~12/1

2018 日々の聖句 11月25日㈰
新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。(詩96:1)

(見よ、)あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:9~10)

私の黙想:
「新しい歌」は新しい時代の到来を喜ぶ歌である。天皇が代わると年号も変わる。これが日本の慣習である。年号など不要だという議論もあるが、そもそも「西暦」だって「イエスの登場による年号である。
「新しい歌」とは新しい時代に相応しい新しい讃美を求める声である。
イスラエルの歴史において、バビロンの捕囚直前の状況は、既に12部族のうち10部族は歴史から消え去り、ユダ族を中心にする「南のユダ国」となっていた。つまり、実質的にイスラエル民族は崩壊していたのであり、そこから解放されて祖国に復帰すしたのは南のユダ国の残党に過ぎなかった。そこで解放後の彼らはもはやイスラエルではなく、彼らは新しい民族の誕生であり、名称も「イスラエル」から「ユダヤ」に変わった。

2018 日々の聖句 11月26日㈪
主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。(しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。)(詩146:9)

マリアの言葉:(権力ある者をその座から引き降ろし、)身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、(富める者を空腹のまま追い返されます。)その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。(ルカ1:52~54)

私の黙想:
寄留の民、今でいえば、難民。みなしご、やもめ、今でいえば戦争で家族の主柱を失った遺族。あるいは、何らかの事情によって家庭崩壊し、居所を失った人々。
主は彼らを「励まされる」。他の訳はほとんど「支える」となっているのに、なぜ「励ます」に変えたのだろうか。「支える」なら、周囲の人々の課題となるが、「励ます」ならヤハウェの仕事になる。それは、まぁ、いい。
今日の聖句のポイントは、それに続く後半の句(「日々の聖句」では取り上げられていない)との関係である。前半と後半を結ぶ接続詞は単純な「ヴ」である。ほとんどの邦訳は「しかし」と訳している。確かにこれらは対比されている。フランシスコ会訳、岩波訳では接続詞を省き、直結している。つまり後半は後半というよりも「支える」ということの具体的な方策が述べられていると見るべきであろう。何故、彼らが寄留の民となったのか、何故、彼らはみなしごなのか、何故、彼女らはやもめなのか。彼らをそのような境遇に押し込んだ悪い連中の「企て」を、覆させる。原語の意味は「(強制的に)曲げる」。主は彼らの政策を転覆させる。

2018 日々の聖句 11月27日㈫
飢えた者に、あなたのパンを分け与えなさい。(イザヤ58:7、口語訳)

善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。(ヘブル13:16)

私の黙想:
今日の聖句は、これだけ短い文章を読んでもあまり迫力がない。少し長いが全文を新共同訳で引用しておく。「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与えさまよう貧しい人を家に招き入れ裸の人に会えば衣を着せかけ同胞に助けを惜しまないこと」(6~7)。単に私のパンを飢えている人に分け与えることではなく、その人が飢えている理由にまで立ち入り、それを断ち切ることを意味している。その一連の運動の中で、飢えている人とパンを分け合うことを銘じられている。「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出であなたの傷は速やかにいやされる」(8)。

2018 日々の聖句 11月28日㈬
わが神、主よ、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。(この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。)(列王記上8:29)

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。(エフェソ2:19)

私の黙想:
エルサレムに神殿が竣工し、民族統一のシンボル「主の箱(契約の箱)」を搬入した時に捧げたソロモンの祈りである。ここでは神(ヤハウエ)は神殿の外から、神殿に目を注ぎ、王が神殿で「天の神に祈る」という構造になっている。この構造が、神殿の中に神が存在するということに変わる時、神殿そのものが「ヤハウェの居られる所」となり、神殿の偶像化にすすみ、神殿信仰の腐敗が始まる。ここにその萌芽がみられる。今日の聖句に続く次の言葉にその危険性が潜んでいる。
「日々の聖句」が省いた括弧の中がそれである。「この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」。「このところに向かって」祈る。神殿に向かって、メッカに向かって、祈るという感覚は危険である。キリスト教においても、あまりにも豪壮な聖堂を建て始めると、偶像化の危険性が含まれている。
神殿は「すべての国の人の祈りの家」(マルコ11:17)であるべきだというのがイエスの主張である。イエスはどこにいても上を見上げて「父よ」と祈られた。神殿に向かって祈る姿は福音書にはない。

2018 日々の聖句 11月29日㈭
教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように。(詩39:5)

恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。(黙示録1:17~18)

私の黙想:
「わたしの行く末」を口語訳、岩波訳では「わが終わり」と訳している。いろいろな訳の中で祈祷書は、今の私の気持ちを示している。「主よ、わたしはいつまで生きるのか。終わりの日を示し、身のはかなさを悟らせてください」。ここまで「私の終わり」がハッキリしているのに、最後の最後の所はハッキリしない。たとえば、終わりの日を自宅で迎えられるのか、病院なのかということでさえ、本人の希望はかなえられるのか否か不明である。この点について主治医とも繰り返し話し合っているが、結局、分かることは分かるが、わからないことはわからない。
5月の段階、在宅医療を始めるとき主治医と話し合ったことは今年のクリスマスを目標にしましょうとしているが、それは一応達成しそうである。
さて、その次の目標は・・・クリスマスが終わってから相談する。

2018 日々の聖句 11月30日㈮
もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、(今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。)あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。(申命記28:1,6)

その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。(使徒16:9~10)

私の黙想:
今日の聖句では1節の括弧の中を省いている。ここを省くとヤハウエの言葉の迫力が半減する。字数の制限上やむを得ないのであろう。だから黙想ではその部分を含める。要するにここには申命記的論理(倫理)の核心が展開されている。
それはそうと「あなたは入るときも祝福され、出て行くとき。も祝福される」とは何処に入るときで、何処から出ていくときなのであろう。文脈から見ると「生活圏」からの出入るのようである。ここで何故、「出る」より「入る」の方が先なんだろう。普通は出ていって帰ってくる(入る)のではないだろうか。おそらく「未知の世界に入る」そして「無事にそこから出てくる」ということであろう。未知の世界に入っても出て来ないこともある。
ある意味で「学問の世界」などはその典型かも知れない。特に神学など不用意に入ってしまうと,その迷路に絡まれ,出て来られなくなる。その点、哲学の場合は何処からでも入れるし、何処からでも出られる。そんなことを言ったら哲学者に叱られるかも知れないが、その点では哲学の世界は明るくて透明感がある。私の恩師はもともと哲学専攻の学生であったが、師事した波多野精一先生(宗教哲学)との関係で「キリスト教学」を経て「神学」に入った。晩年そのことについて、哲学は理性に基づきクレアでいいと言われ、しかし「神学のジャングルに迷い込んでしまった」と言っておられた。わかるような気がする。

2018 日々の聖句 12月1日㈯
(あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、)御救いを愛する人が、神をあがめよといつも歌いますように。(詩70:5)

群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。(ルカ13:17)

私の黙想:
「神をあがめよ」という言葉は「御救いを愛する人々」が歌う言葉である。「神を崇めよ」では人々への呼びかけの言葉であって、神を賛美する言葉にならない。口語訳では、「あなたの救を愛する者はつねに「神は大いなるかな」ととなえるように」と訳されている。フランシスコ会訳で「神は大いなる者」、新改訳では「神は大いなるかな」、岩波訳は面白い「大いなれ、ヤハウェ」。
「崇めよ」と訳されている原語は難しい。教団訳の主の祈りでは「御名を崇めさせ給え」を聖公会訳の主の祈りでは「「御名が聖とされますように」である。
旧約聖書から新約聖書へと貫く鍵の言葉は、「神が神となる」と「民は神の民となる」という組み合わせである。レビ26:12、エレミヤ7:23、31:1、31:33、エゼキエル37:27、新約聖書では2コリント6:16、ヘブル8:10、黙示録21:3に出てくる。多少、論理が飛躍するが、私は「神を崇める」とは「神を神とすること」、その裏には「民は民となる」という意味で、これは「人間は人間になる」を意味すると解釈している。
ここでは詩人は多くの人々から笑い者にされ、辱めを受けている。何か特別な理由があるわけでもなさそうである。つまり「いじめ」のターゲットにされている。詩人自身も自分自身が貧しく、弱く、それらのいじめを跳ね除ける「実力」もないという。ただ、「身を屈めて」、やられっぱなしである。その中で、心の中で「私のヤハウェは強いんだぞ」と呟いている。幼い子供が「うちの父ちゃんは強いぞ」と呟きながら「早く助けに来て」と声なき声で叫んでいる情景である。この詩はこういう情景を描写している。これがまさに列強に囲まれた弱小民族の嘆きだ。

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