ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 03/31

2016-04-02 10:34:37 | ツイッター
お早うございます。主の平和。「身体の復活」について考える。その場合の二つのヒント、ラザロの甦りとイエスの復活との違いは何か。復活論における「初穂論」の意味。午後から海の中道散策。夜、松本清張の作品を見たが面白くないので、10時から報ステに切り換えて10時半に就寝。6時に起床。この歳になって、歩かないで足が痛いのと、歩き過ぎて足が痛いのとの違いを発見。今朝は心地よい痛さが残る。血圧(144:73,69)・体調・快調。チュン、チュン。

28播 稔さん、松井 貴志さん、他26人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪歩かないで足が痛いって???な朝です。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

文屋 善明 これは80歳近くになって初めて経験すること。この歳になってもまだ「初めて」があるということは凄いことですね。

村田 多鶴子 先生と私は10歳違いですから、10年後に元気でいれば経験できることなんだと、楽しみに待ちます~(笑)

萩野 秀子 おはようございます。整形外科、チラシ配布です。良き日となりますようにお祈りします。

松木田 博 血圧に関しては、私よりもうんとお若いですね。。。

藤木 冨士子 おはようございます。

東山 富昭 おはようございます。今日も、よろしく、お願いします。


文屋 善明
3月31日 6:07 ·
お目覚めの花。「今日は復活後木曜日だ」「復活したイエス様はどこに泊まっていたのだろう」「時々顔をお見せになるが、その他の時はどこに居られるのだろう」「弟子たちは『ラビ、どこに泊まっておられるのですか』(Jh.1:38)と尋ねなかったのだろうか」「一寸、心配ですよね」。(写真は廃墟(作られた)に咲く桜、昨日撮影)
文屋 善明さんの写真


文屋 善明
3月31日 6:33 ·
2016 日々の聖句 03月31日(木)
主よ、わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。(Ps.141:4)
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。(Jam.4:17)
私の黙想:
今日の聖句は面白い。いったい「心が悪に傾く」とはどういうことなのだろうか。考えさせられる。これに続く言葉を読むと、要するに「悪い連中の仲間になるな」ということらしい。面白いのは、その次の言葉、「彼らの与える好餌にいざなわれませんように」が重要。悪い連中は「天使のような顔をして」「甘い言葉で」、おまけに「好餌(こうじ)」で誘う。ここを口語訳では「彼らのうまき物を食べさせないでください」と訳している。江戸でも一番の寿司屋に招かれて、にこやかに歓談する。それだけのことである。美味いものを食って歓談する、それだけのこと、何が悪い。それは決してスキャンダルでもないし、とやかく文句を言われることもない、とマスコミのお偉方は言う。
フランシスコ会訳はもっと面白い、「彼らの珍味を味わせないでください」。人間は「珍味」に弱い。「珍味」には時々毒がある。毒があればあるほど珍味は美味いという。一回味わうと、また誘われれば、また行くことになる。「珍味」の味は繰り返されることを求める。誘われたら、また行きたくなる。これが「わたしの心が悪に傾く」ことである。だから、詩人は「誘われない」ことを祈る。

23藤木 冨士子さん、岸本 望さん、他21人


文屋 善明
3月31日 6:41 ·
今日の名言:@wisesaw
暴力によって得られた勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから。(ガンジー)
<一言>そう思い、そう信じなければ、やっておれない。この言葉に弱者の思いが込められている。

27藤木 冨士子さん、播 稔さん、他25人
コメント

楠 真理子 ガンジーの自叙伝中学生のときに読みました。非暴力の抵抗は素晴らしいガンジーの節制と努力等によるものでした。彼は偉大なインドの強者でした。何にも屈しない人でした。

藤木 冨士子 無抵抗、後になったからわかる。


文屋 善明さんが写真16件を追加しました。
3月31日 7:00 ·
海の中道公園のチューリップ(2016.3.30)
文屋 善明さんの写真

55柳沢 有紀夫さん、藤木 冨士子さん、他53人
コメント

村田 多鶴子 綺麗なチューリップたちですね~♪(^^♪

文屋 善明 個別的なクローズアップは省きました。

村田 多鶴子 お近くに見どころが沢山あって、羨ましいです。

文屋 善明 近くと言っても自動車で1時間半ほど走ります。往復で3時間です。

村田 多鶴子 えっ、そうなんですか?!お元気なればこそ…ですね。
写真を通じて楽しませて頂けて有り難いことです。

多田出 佳代子 とっても可愛く咲いていますね。チューリップだいすきです。見せてくださり感謝です。


文屋 善明
3月31日 7:59 ·
NHKこころ旅。三宅島にて、アコンザキ(下根崎)から新鼻(にっぱな)に出発。さすがに海が荒いな。御蔵島が餃子に見える。チャリオがガタガタ言っている。ハート食堂で休憩。亀の手のすいとん。新鼻は宇宙映画みたいなところだ。

8藤木 冨士子さん、鈴木 ゴリ 宣仁さん、他6人

文屋 善明さんが写真16件を追加しました。
3月31日 8:32 ·
海の中道公園の桜(2016/3/30)
文屋 善明さんの写真

40藤木 冨士子さん、播 稔さん、他38人
コメント

山本 友美 確かに昨夜の清張のは面白くなかったです。文屋司祭、熊本城の桜すごくきれいですよ。何年か前にチラと見ただけですが印象的でした。

藤木 冨士子 いいねができません??


文屋 善明
3月31日 9:04 ·
断想:復活後木曜日の福音書
復活のイエスが魚を食べた
復活後木曜日の福音書は、前日に続いてルカ24:36~48である。弟子たちへのイエス顕現の物語としては、最も総括的で、完成度の高い物語になっている。主日礼拝ではB年の復活節第3主日のテキストに選ばれている。A年がこの直前の個所、復活後水曜日の福音書、C年はヨハネ21:1~14で、復活後金曜日の福音書である。つまり復活後の水曜日から金曜日までの福音書と復活節第3主日の3年間の福音書とが重なっている。
ここでは突然弟子たちの前に姿を現したイエスは弟子たちから「亡霊を見ているようだ」と言われて、亡霊でないことを強調する。手や足を見せたり、焼いた魚を食べて見せたりして、イエスの復活とは「身体の復活」であることを強調している。それに加えて、聖書を引用して説教した上、弟子たちを宣教へと呼びかけている。ポイントがいろいろありすぎるぐらいである。
復活信仰という場合、その核心部分に「身体の復活」ということがある。普通、イエスの復活を信じているというキリスト者たちにイエスの復活とは何かと問うならば、だいたいは「霊的復活論」、「精神的復活論」が主張される。「論」というほどしっかりした主張ではないにせよ、一般的には精神的な事柄として「死んだような私が福音に接して生きる者とされた」というような「証し」が復活信仰の土台になっている。
ところが今日の福音書が語る復活の話はそれとは違う。身体の復活である。生物学的・物理的復活である。復活したイエスを「触れる」、復活したイエスが魚を「食べる」出来事である。ここまで来ると、私たちはもうお手上げである。信じられない。あるいは馬鹿馬鹿しい話である。
こういう形でイエスの復活を語るということは、その当時の人たちにとっても信じられない出来事であったに違いない。古代人たちにとっては死人が復活するということは現代人ほど不思議なことではなかったと言う議論があるが、そんなことはない。この点に関しては彼らと私たちとの間にそれ程の世界観の違いなどない。私たちが信じられないことは、彼らにとっても信じられないことなのである。にもかかわらず、彼らはイエスの復活を考える場合に「体のよみがえり」にこだわった。いなむしろ「体のよみがえり」でないならば、それは「復活」ではない、と彼らは考えた。何故、このことに彼らはこだわったのだろうか。
この問題は簡単には解けない。
全然、話は異なるが、使徒信経のことを考える。あまり多くの人は気にしないで使徒信経を唱えているが、ここには一つの謎がある。キリストに関する部分で「主は、・・・死んで葬られ、よみに降り、三日目に死人のうちからよみがえり、・・・・」と唱える。ところが次ぎに聖霊に関する部分で、「・・・・・聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、・・・・」と唱える。つまり、後の部分は「私たちの」復活に関する信仰告白で、そこでは明瞭に「体のよみがえり」と唱える。イエスの復活と私たちの復活との関係はどうなっているのだろうか。これらを切り離して論じている限り、「体のよみがえり」の謎は解けない。この二つの点を結ぶ中間項にパウロによる「初穂論」(1Cor.15:20)があることは明瞭であろう。パウロはこれを回転軸として「復活の身体」論へと展開される。

32播 稔さん、細谷 民子さん、他30人
コメント

文屋 善明 「人を食った話」でないだけでも、いいでしょう。

藤木 冨士子 人を食わずに種無しパンを食べます。

山本 友美 高島で、友美さんは肉も魚も食べないけれど人食ってるから大丈夫、と言われたことがありました。義妹はおなかがよじれるほど笑っていました。

文屋 善明 お味はいかがですか。

播 稔 言葉のあじですからねー。

播 稔 恋なら甘いのでしょうが。もとは 人を馬鹿にした、見下した言葉だからなー。

Satoshi Mizota キリスト教信者は人喰いだ、とか。。。

石田 聖実 アーメン


文屋 善明
3月31日 13:43 ·
今日の「折々のことば」。「努力が趣味の一種」。趣味って非常に個人的なもので何を趣味というのかは100%個人に任されている。確か、シュライエルマッヘルは「宗教とは無限なものに対する感覚と趣味」というようなことを言っていたことを思い起こす。
ここでの東海林さだおさんの趣味も面白い。「努力」というよりも「仕事」が趣味だという。その意味でいうと、私も仕事が趣味であった。ただ、ワーカホリックと言われるほどマニアックではなかったが。だから、定年退職になっても趣味に変更はない。今は朝から晩まで、私がやっていることが丸々趣味である。その意味では、私の趣味に付き合わされている家内は気の毒であるが。
文屋 善明さんの写真

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=998529580224503&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

26松井 理直さん、児島 良一さん、他24人
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コメント

川染 三郎 同感。以前、「牧師は趣味でやっています」と言ったら叱られました。趣味はサラリマンのように義務でやっているのではなく、プロとして、やりたいからしているのです。

文屋 善明 「牧師」は総合的なので「趣味」の内容としては相応しくないでしょうが、私の場合は「説教」は趣味です。

播 稔 妄想を整理して、言い聞かせる。 時により、同じ聖書解釈でも説明は異なる。

藤木 冨士子 人が仕事をしてる姿を見るのが趣味です。

文屋 善明 それは悪趣味だ。人の仕事を手伝うのが趣味です、これは「いいね」。

藤木 冨士子 見とれて手を出せない。職人さんの仕事というべきですね。

文屋 善明 聖書研究が「職人芸」だという人も居ますよ。

藤木 冨士子 研究してる姿は勉強してるのと変わらないでしょ?
お豆腐やさんが作ってるところ、うどんやさんがうってるところ見とれます。


文屋 善明
3月31日 14:13 ·
「昨日のツイート 03/29」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

8藤木 冨士子さん、藤井 衞さん、他6人


文屋 善明
3月31日 16:03 ·
イミタチオ・クリスチ(79):
神がすべての人間を完全な者として創造されたら、私たちは隣人の苦しみ共に担う必要はなくなる。しかし、神は私たちが「互に重荷を負い合う」(Gal.6:2)べきことを学ばせるために、万事を今のようにお定めになったのである。16:11~12a

19藤木 冨士子さん、小貫 ツマさん、他17人

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