ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:復活日の旧約聖書

2017-04-14 06:42:15 | 説教
断想:復活日の旧約聖書(2017.4.16)

復活体験 出エジプト14:10~14,21~25,15:20~21

<テキスト>
10 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、
11 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
12 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
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15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
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21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
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15章
20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。
21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。


<以上>

1. イースター
教会にとって、また全てのキリスト者にとってイースターという日がどんなに大切か、また喜ばしい日であるか今更説明することもない。それはまさに、私たちの全存在を成り立たせているる出来事であり、イエスのご復活なしには私たちの信仰もなく、また教会も存在しない。
牧師にとって、復活日の説教には毎年苦労する。復活日という特別な日であるから、復活以外のことを語るわけにはいかない。ところが、復活ということについては、くどくどと説明したり、解説することを否定する雰囲気がある。分かりやすい説明は復活という神秘を矮小化してしまう。では復活日には何を語るべきなのか。一つだけ分かったことがある。復活ということについて語るのが難しい理由は、復活という出来事が理性によって理解できない奇跡であるということにあるのではなく、私たちは、否、私は復活という出来事について明確なイメージをもっていない、ということにある。伝統的には、卵がふ化するイメージとか、サナギが蝶に変身するイメージなどが取り上げられるが、子どもに対してならともかく、まともな大人の議論として復活という出来事をそんなことで納得できない。

2. 紅海徒渉
本日の旧約聖書で紅海渡渉の出来事が読まれた。なぜ復活日に紅海徒渉なのだろうか。先ず、出エジプト記が語るイスラエルの紅海徒渉の出来事を確認しておきたい。
出エジプトしたイスラエルの民を最初に襲った生きるか死ぬかという大事件が紅海徒渉である。後からは重装備をしたエジプトの軍隊が無防備なイスラエルの群集を殲滅すべく砂ぼこりを立てて迫ってきている。その行進の足音が不気味に響いてくる。もう一刻の余裕もない。彼らの前には広く、深く、逆巻く紅海が横たわっている。前に進むことも、後退することもできない。彼らには逃げ道はない。まさに、風前のともし火である。結果はハッキリしている。ここに至って、彼らはモーセに訴える。「われわれを連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」(出エジプト14:11)。この訴えはあまりにも無責任で、ひどすぎるが、また当然でもある。彼らはエジプトの地で奴隷として、もうこれ以上我慢ができないような状況の中で、「うめき」「助けてくれ」と神に「叫び」訴えたのである。その叫びはどうなったのか。彼らはその訴えを忘れてしまったかのように、「われわれは『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(同12)とまで言う。ひどいことを言うと私は思う。しかし状況はまさにそう叫ばざるを得ないような状況である。進退きわまる、とはこういう状況であろう。
この状況はイエスが十字架刑によって死なれたとき、弟子たちはこれと同じような状況に置かれていた。彼らに残された道は故郷に戻って昔の生活に戻るという事だけであった。イエスなどに出会わなければ、平穏な人生を過ごすことができたのに。
本日のテキストの中で、こう切羽詰った状況の中で、神がモーセを通して語られた言葉が響く。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(同13)。そして、あの奇跡が起こったのである。紅海が真っ二つに割れ、その間に道が開け、両側に水が逆巻く間をイスラエルの民は歩いて渡ったのである。彼らを追ってきたエジプトの軍隊が同じように水の間を渡ろうとしたとき、両側の水は軍隊の上に雪崩のように崩れ、全滅した。イスラエルの民にとっての紅海徒渉の出来事は神の勝利の出来事であった。
だから紅海徒渉の出来事はまさにキリストの十字架の出来事に対応する。
3.紅海徒渉と洗礼
だからパウロは、この紅海徒渉の出来事をキリスト者の洗礼と重ねている(1コリント10:1~4)。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」。
パウロはこの出来事をキリスト者の洗礼と重ねたが、復活経験とは重ねていない。

4.復活体験
そこで、最初の問題、なぜこの出来事を復活日に読み、復活物語と対比させているのであろう。その答えは、今日のテキストにヒントがある。今日のテキストで特に注目すべき点は、わざわざ15章から付加されている部分である。
「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた」(出エジプト15:20~21)。
ここではモーセの姉のミリアムの指導によって勝利の賛美を歌っている。このミリアムはこれ以前にも面白い部分で登場している。モーセがパピルスで編んだ籠に乗せられてナイル川にながされた。その籠は、ちょうどその時水辺で水浴びをしていたエジプトの王女のところに流れ生き、王女はその子を取り上げ、自分で育てようと思う。ちょうどその場を見届けていたモーセの姉が登場し、その子を育てるのに相応しい乳母を知っていると進言し、結局その女性が乳母に採用される。その乳母こそまさにモーセを産んだ実母であった(出エジプト2:3~10)。その時活躍したモーセの姉がミリアムである。
そしてそのミリアムが再び登場したのが、この場面である。この場面は、救われたことを讃美する場面である。救われたことを実感し、心の中からわき上がる喜びを歌う。キリストの十字架は神の側での出来事であり、そこには人間が入る余地はない。そこでは人間は恐れおののき、ただ右往左往するだけである。しかしその十字架が現実的に私の経験として引き寄せられたときに復活が経験される。
十字架の場面で、恐ろしくて、郷里へ逃げ帰った弟子たち、ローマからもユダヤ当局からも追及を恐れて隠れていた弟子たち、イエスとの生活など忘れてしまいたいと思っていた弟子たち、昔の平穏な人生に戻るつもりでいた弟子たち、しかし彼らは忘れることができなかった。イエスと過ごしたあの時の充実した時間、それは忘れられないイエス体験であった。いつしか、一人ひとり、集まり、思い出話をしているとき、突然彼らは復活したイエスの姿を見た。そのイエスはあの時と同じように彼らに「我に従え」と声をかけられた。それはまさにあの時の経験の再現であった。その時不思議に彼らの内部に力が沸き上がり、恐れが吹き飛んでしまった。彼らの口から讃美の声が出てきた。ミリアムの場面である。復活日にこのミリアムの場面を読む。そして、歌う。

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