ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第10主日(特定12)(2018.7.29)

2018-07-27 16:24:18 | 説教
断想:聖霊降臨後第10主日(特定12)(2018.7.29)

湖上を歩く   マルコ6:45~52

<テキスト、超超訳>
◆湖の上を歩く(6:45~52)
それからすぐに「なんで、そんなに大騒ぎをするんだ。あなたたちには信仰がないのか」と言い、御自分は一人だけになって祈るために山へ入って行かれました。
夜には、弟子たちを乗せた舟は湖の沖合にあり、イエスだけが陸地におられました。ところが深夜も過ぎた頃、突然、激しい逆風が吹き始めたために弟子たちがこぎ悩んでいました、イエスはそれを見て夜明けも近い午前4時頃、湖の上を歩いて彼らに近づき、(そのまま)弟子たちが乗っている舟の側を通り過ぎようとされました。彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫びました。弟子たちは皆、その姿を見ておじ恐れたからでした。それで、イエス方から声をかけ、「しっかりするのだ。私だ。何を恐がっているのか」と言われた。そして、イエスが舟に乗り込まれますと、すぐに風は静まりました。彼らは心の中で、非常に驚いた。先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。

<以上>

1. 湖上を歩くイエス
湖上で嵐を鎮めるイエスのエピソードは前にも出てきた(マルコ4:35~41)。その時のイエスは群集を後に残し、弟子たちと共に船に乗りこみ、湖上で突風に遭い、舟は遭難しそうになった。その物語においては、イエスは嵐の中で枕をして眠っておられたということが印象的であった。弟子たちに起こされたイエスは風を叱り、湖に「静まれ。黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになりました。そこでイエスは彼らに言われました、「なんで、そんなに大騒ぎをするんだ。あなたたちには信仰がないのか」。弟子たちは非常に恐縮し、お互いに「この方は一体どういう方なのだ。風も海も従うじゃないか」と話しました。その時のイエスは弟子たちに「なんで、そんなに大騒ぎをするんだ。あなたたちには信仰がないのか」と述べておられる。この記事はマタイ(8:23~27)にも、ルカ(8:22~25)にも記録されている。
本日の出来事では「それからすぐに『なんで、そんなに大騒ぎをするんだ。あなたたちには信仰がないのか』と言い、御自分は一人だけになって祈るために山へ入って行かれました」と述べられている。
夕方になって、舟が湖の真ん中を航海中に「逆風」にあい、弟子たちは大変苦労し、疲れ果てる。この記事はマタイ(14:22~33)とヨハネ(6:15~21)とが記録している。ヨハネの記事は非常に簡単で短い。ところがマタイの方はマルコの記事をかなり書き改めている。一番大きな変更は、ペトロも水の上を歩くというエピソードが挿入されている点である。これを挿入することによって、ペトロの立場が非常に強調され、水の上を歩くということの奇跡性が非常に強調されている。
結論を言うと、マタイが強調したいことは「神の子イエスを信じるなら、水の上を歩くこともできる」ということで、逆風が荒れ狂うこの世における教会の姿が描かれている。

2. 「イエスだけが陸地におられました」
しかしマルコがこの物語を通して語ろうとしている点はマタイとは少し違っている。マルコの記事を読んで印象に残る言葉は「舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」(47)という言葉である。弟子たちだけが湖上におり、イエスは弟子たちの側にいない。つまりイエスの不在ということが強調されている。前の記事ではたとえイエスは眠っていたにせよ、舟の中におられた。ところがここでは逆風の中、イエスが側におられない。もともと弟子たちの中にはガリラヤ湖を本拠地とする漁師もいる。彼らにとってイエスが側におられるか、おられないかなどは問題ではないはずである。しかし、この記事はそんなことを語っているのではない。イエスが不在の弟子集団の姿である。普段、偉そうに言い、振る舞うペトロの頼りなさが描かれ、彼の指導力のなさが強調される。他の弟子たちが不安になって当然であろう。この危機をどう乗り越えるのか。舟の中で苦悩する人々にはイエスの姿が見えない。
しかし本日の記事の中で、もう一つ注意を引く言葉「突然、激しい逆風が吹き始めたために弟子たちがこぎ悩んでいました」とあり、「イエスはそれを見て」いたと述べられている。いったいイエスはどこから見ておられているのであろうか。マルコはそのことに触れない。ただ「イエスはそれを見て」いたという事実だけが述べられている。もちろん弟子たちもイエスがそれを見ていることに気付いていない。しかし事実としてイエスは弟子たちの苦悩を見ておられる。ここにはイエスの弟子たちに対する主体的な関心が描かれている。ところがマタイはこの言葉を省略してしまい、イエスが水の上を歩くことの情景描写(奇跡物語)に変えてしまった。その結果、この物語は迫害の中の苦悩する教会へのメッセージというポイントがかき消され、イエスに対する弟子たちの信仰という視点は失われてしまった。
 重要な点は、弟子たちが逆風の中苦しんでいるという客観的な記述ではなく、それをイエスが見ておられるということである。見かねてイエスは立ちあがり「弟子たちの側」に行かれる。それが水の上を歩いてなのか、空中を飛んでなのか、そんなことは問題ではない。とにかくイエスは弟子たちの見えるところに来られた。
ところが、ここで非常に奇妙なことが述べられている。嵐を叱るのでもなく、舟の中に乗りこむのでもなく、「舟の側を通り過ぎようとされました」(48)。これは一体どういうことなのか。おそらくマタイはこのことが理解できなかったに違いない。彼はこの言葉を削除し、そこにペトロのエピソードを挿入するのである。注目すべきことは、この時、弟子たちは近づくイエスを「幽霊だ」と思ったことである。このことがこの物語の最後に「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と説明されている事柄であろう。

3. 「私はある」エゴ・エイミ
弟子たちがあまりにもわからないので、イエスは弟子たちに話しかけられる。「しっかりするのだ。私だ。何を恐がっているのか」。本当ならイエスは弟子たちに自分の姿を見せただけで、そのままそこを通り越されたのだろう。私はそうだと思う。それではなぜイエスはわざわざここに来られたのか。イエスは手出しするために来られたのではない。ただ、私は居ないのではなく、いつもあなたたちの側にいるよ、ということを示すために来られた。イエスは弟子たちがイエスの姿を見ただけで、あるいはイエスの存在を思い出すだけで、その困難を乗り越えることを期待された。
このイエスの言葉の中で、「私だ」という言葉は注目に値する。ギリシャ語本文でいうと「エゴ・エイミ」である。「私がいる」とも訳せるが、むしろこれは、どういう風に翻訳するのかという問題ではなく、モーセにご自分の名前を「私はある」というものだ、という出エジプト3:3~10の言葉を思い浮かべるべきであろう。
モーセがミディアンの荒れ野で羊の群れを飼っていたとき、不思議な現象を目にした。柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセはこの不思議な光景を見届けようと火に近づいた。そのとき神は柴の間から「モーセよ、モーセよ、ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と声をかけられた。神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。その時、神の声が響いた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」。モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」。
この時、始めて「神の名」が明らかにされた。その名が「私はある」である。その時以来、「私はある」という言葉は特別な意味を持つ言葉となった。神が自らの存在を明らかにするときの言葉である。

4. 「パンの出来事」
マルコはこの時の弟子たちの不信仰をパンの出来事とを結びつけて、「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」(52)と説明する。この説明は謎である。なぜ、この出来事とパンの出来事とが結びつくのであろうか。実は、この点については説明することが逆なのである。水の上を歩くイエスの姿から、パンの出来事の秘密が明らかになる。
私はここに「パンの出来事」の秘密があるように思う。いや、それこそが「パンの出来事」の秘密そのものである。ここでいう「パンの出来事」とは聖餐式のことである。聖餐式とはパンを見てイエスの現臨を思い出す式である。この場合、過去のことを思い出すのではない。今、ここに、イエスが現在しておられることを「思い出す」のである。逆風が吹き荒れる中で、イエスの不在に怯えている私たちに対してイエスご自身が近づき、「共にいる」ことを思い出させる。思い出すだけで十分に困難に立ち向かうことができる。それが聖餐式の秘密である。
幼児は母親の姿が見えなくなると泣き喚く。母親がいないという不安に襲われる。確かに母親は視界から消えているだろう。しかし成人した大人はそうではないはずである。たとえ東京と大阪に離れていても「常に共にいる」ということができる。離れていても共にいる、ということは「思い出」の秘密である。逆風の中で私たちはイエスに嵐を鎮めていただくのではなく、自分たちで乗り越えて行かねばならない。しかし、それができるのはイエスが「共におられる」という信仰によってである。

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