ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

福岡大空襲

2009-05-17 03:22:33 | ときのまにまに
火野葦平の「盲目の暦」のもう一つの収穫は、敗戦の直前の1945年6月19日の福岡大空襲の激写であろう。わたし自身は戦後引き揚げ者なので、空襲という経験はしたことがない。従って、実感は薄いが、火野氏の描写はそんなわたしにも印象深い。
以下に、その描写をノートしておく。

いつか、爆音も高射砲弾も遠のいたようである。階段を降りて、空を仰いでみた。月も星も見えず、うす茜の煙で掩いつくされた天を、一機のB29が過ぎるところであった。機体は下からの焔で赤く染まり、おそい速力で悠々と旋廻している。全然音がしないので幻のようだ。すでに、攻撃を終った数十機は脱出して、その戦果を見さだめるための偵察機であろうか。なお、遠くで間をおいて爆発音がしたり、嵐に似たざわめきが聞えるが、危険の去ったことは直感された。ほっとした虚脱感で、急に全身の解体するような疲労をおぼえた。汗で身体中ぬれていた。耳のうしろを冷たい汗が伝う。
「どうするな?」
笹井勇道のその言葉に、
「博多ホテルは焼けたか知らん?」
研吉は、そこへ宿をとっていた。
「さあ、駄目かも知れんなあ。なんか、荷物でも置いとったな?」
「格別なものもないけど、……」
「僕は警察署に行ってみるが、あんたも行かんな? 僕はここの警察報道隊に入っとるけん」
「後から行こう」
笹井と別れて、研吉は一人、県庁の横を通って、東中洲の方に出た。水上公園の手前まで来て、呆然と立ちつくした。紅蓮の焔にのたうちまわる那珂川の対岸から、熱風と火の粉とが吹きつけてきて、そこからはもう一歩も先に出られない。風はなかったのに、大火災がおこるとすさまじい突風や旋風がまきおこって、焔の廻転している通りから赤い雲のように、さまざまのものが吹きあげられて来る。いつもこのあたりを遊び場にしている多くの鳩が、塵のように地面に吹き散らされていた。そのほとんどが屍骸であり、わずかになお息の残っているものがあるようだったが、それもすでに火の風には抵抗できないようだった。火事がおこると同時に、鳩の群は天空に飛びたったが、かれらの飛翔力ではすさまじく空へ吹きあげる火焔とその熱気とから逃れることができなかったのであろう。また火災の範囲がひろすぎて、安全な場所もなかったのだ。実際、研書自身、火の環のなかにつつまれている。そのころ全国の都市に対して行われた絨毯爆撃というもののようだ。数十機が福岡市街を外廓から逐次円周をちぢめて来て、焼夷弾を落したのである。研吉の立っている県庁附近が円の中心にぽかんと取りのこされているが、周囲は幾重にもなった火の環である。出ることはできないし、いつ外廓から中心へ燃えうつって来ないともかぎらない。ありたけの消防自動車と軍隊とがくりだしているが、ポンプの水はかえって火勢を増すかのように見えた。
研吉はポケットから黒皮の手帖をとりだした。それをひらいた。明かるいのでなんでも書ける。手帖をひらくと、見ひらき二頁に、万年筆で眼前の地獄図絵を写生しはじめた。大ざっぱのようで割りに丹念な研吉には、つよくメモをとり、絵心もあるのでスケッチをしたりもするが、いま、灰燼に帰しつつある一つの日本の都会、福岡市の滅亡する姿をかきとどめている心は、これまでのような備忘風な気持とはまったくちがっていた。神経ははげしくささくれだち、気負いたち、怒りと悲しみとに眼はぎらついていた。しきりに舌打し、唇をぎゅっと噛んでは噴火山のように大きなためいきをつく。電車線路をはさんだ東中洲の目抜きは総舐めである。暴風、海鳴り、印刷工場、セメント工場、爆竹、鞭、さまざまのもの恐しい音響を交錯させて、いちめんにのたくる火の塔をきずきあげている。焔のなかを抜けだして、避難する人々が、水に濡れた莚などを頭からかぶり、西大橋を渡って息もきれざれに駈けて来る。荷物を車で運ぶ者、かついで来る者、ひきずって来る者、ともかく現在は安全地帯である水上公園附近、研吉の佇んでいるかたわらに来て、放心た表情で炎上する街を眺める。多くの人は力つきてぐったりと路上に腰をおろし、或る者は死んだように寝そべって
いる。赤ん坊を負ぶった乱れ髪の女が、なにも入っていないバケツひとつをぶらさげ、狂気のように泣き喚いている。那珂川のなかにたくさんの人が浸っているのが黒く見える。川は真紅に染って、血の池と化している。水面から首だけ出している者もあり、熱くなるのか、ときどき潜ってまた顔をあげる。へばりついた石崖の根で、げらげら笑っている声がきこえる。
ペンでこの風景を写しとりながら、研吉の胸には、自然に、戦争とか、闘争とか、歴史とか、民族とか、人道とか、人間とか、殺戮とか、残忍とか、憎悪とか、恐怖とか、罪とか、刑罰とか、勝利とか、敗北とか、破滅とか、死とか―――そういうさまざまの観念が、順序もなく渦巻いていた。それは一つとして思想とはならず、衝動的な感覚として、研吉をただいたずらに動揺させた。いらいらさせた。そして、或るとき、急にぽかんとした空虚さに襲われる。いったい、この美しい火災はなんによって引きおこされたのか、それを自分はなんのために写生したりなんかしているのか、そんな空洞の場所にきて、ひとりでにペンが止まる。それから、奇妙なことに、緊急とはうらはらの倦怠感、たまらなく退屈になってきて、生欠伸が出る。そのときははっとして口をおさえ、まわりの避難者たちをおそるおそるうかがった。しかし、最後に、追いつめられた研吉をゆすぶりうごかすものは、やはり、負けてなるものかという、たけだけしい愛国の熱情であった。しかし、それはいわゆる、あの「必勝の信念」というものではなく、不安とうぬぼれとの変形のようであった。勝利への確信ではなくて、逆に、敗北への恐れらしかった。
<章改め>
「ここからでも火の手が見えるくらいじゃったけな、心配したばい」
若松にかえってくると、ウメは研吉の顔を見て、もう涙ぐんだ。いくどとなく戦地からかえってきた息子を迎えたのに、逢った刹那に涙をながす習慣は変らなかった。研吉の方はいつか戦場慣れのしているところがあったが、母の涙はいつも新鮮であった。
福岡と若松とは汽車で二時間、二十里ほどの距離であるが、空襲の夜、若松から福岡の空が赤く見えたらしい。家からでは二階にあがってもわからないので、わざわざ高塔山の中腹まで行ったという。しかし、その同じ夜、北九州関門地方にも、例によって機雷投下のB29があらわれていたのである。


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