ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/07/16~07/22

2017-07-22 11:30:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/07/16~07/22

2017 日々の聖句 7月16日(日)
わたしの救いと栄えは神にかかっている。(詩62:8)

イエスはペトロに言われた。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32)

私の黙想:
今日の聖句、まさにその通り。ここでの「栄え」を口語訳は「誉れ」と訳しているが、それも良い。それよりも、ここでは「かかっている」と訳した言葉の面白みであろう。ちなみに口語訳では平凡に「神にある」である。フランシスコ会訳は口語訳と新改訳は新改訳と同じだ。岩波訳ではややこしい動詞をさけて「神にこそわが救いとわが栄光」と訳し、関根訳は口語訳と同じ。ヘブル語原典では笑ってしまった「アル エロヒム イッシュイ ウヘヴォデイ」で、最初の「アル」は「在る」ではなく「〜〜の上に」である。要するに、この「アル」をどう訳すかで、直訳すると「神の上に」で、存在の場所を示す前置詞である。従って動詞はない。注目すべきは、「神の手の中に」でも、「神が持っている」でもない。何故、これが「中」でもなく「下」でもなく、「横」でもないのか。エイ、面倒だ、「アル」だから「在る」にしてしまえ、という訳ではないであろう。ユダヤ人の考え方は面白い。

2017 日々の聖句 7月17日(月)
諸国の民に平和が告げられる。(ゼカリア9:10)

ペトロの言葉:どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって(——この方こそ、すべての人の主です——平和を告げ知らせて、)イスラエルの子らに御言葉を送ってくださいました。(使徒10:35~36)

私の黙想:
今日の聖句は、先週(7月9日)の主日の旧約聖書の日課(9:9~12)である。(参照: http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/da042b4ff2c5e0020aff2d64f27d70f3 )
ここでは平和の主として「ロバに乗った王」(ゼカリア9:9)が登場する。この王によってもたらされる平和は、武器類の完全放棄である。まさに日本国憲法第9条の理想が、紀元前の時代に先取りされている。武力によって守られ、武力によって維持される「平和」が真の平和でないことを人類は長い歴史の中で繰り返し学んだはずなのに、まだ実現していない。しかし、失望しないで、繰り返し、繰り返し、それを主張しなければならない。特にイエスから「平和を実現する人」(マタイ5:9)と指名されたキリスト者は。

2017 日々の聖句 7月18日(火)

その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと。(詩25:10)

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。(ルカ16:10)

私の黙想:
まぁそれが旧約聖書の思想なので仕方がないのであるが、聖書の神は「偏愛の神」である。善人には徹底的に良いが、悪人には徹底的に厳しい。それに文句があるなら、善人になれよ、ということなのであろう。
しかし、そのような文化の中で、イエスは次のようにいう、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:43~45)。この言葉をイエスにまで遡れるのか分からないが、ともかくキリスト教の立場は、これだ。

2017 日々の聖句 7月19日(水)
わたしはあなたをいやす主である。(出エジプト15:26)

キリストのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(1ペトロ2:24)

私の黙想:
今日の聖句、26節全体はこうなっている。(主は)言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」。この種の言葉、理屈をこね出すと際限ない。主の言葉なのに、何故本文に「主の越え」という言葉が出てくるのかとか、「エジプト人に降した病」とか。だから、今日の聖句のように前後関係を全部取っ払って、これだけ取り出すと、スッキリし、結局、ことの言葉に対して私たちはどう向き合うのかということに集約される。私の神は私を癒やす。私は神によって癒やされる。それだけで十分である、癒やされる病とは何か。それは病でさえもないかも知れない。単なる疲労かも知れない。人間関係による「鬱」かも知れないし、上司や権力者からうけた「傷」かもしれない。出自による不当な苦労かも知れない。それら全部を引き受けてくださるのが「私の神」である。

2017 日々の聖句 7月20日(木)
親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします。(ホセア14:4)

最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの苦難(や貧しさ)を知っている」。(黙示録2:8~9)

私の黙想:
さて、今日の聖句、どのように調理しようか。文脈から切り離して、独立した「聖句」として読むか、イスラエルの歴史的状況の中での言葉として黙想すべきか。迷うところである。それによって「親を失った者」の意味が変わってくる。
「親を失った者」、単純に考えると孤児であるが、ここでは「子ども」ではないだろう。成人にだって「親を失う」ということはある。むしろ、その方が一般的であろう。成人した者にとって「親」とは何か。依存する相手というより、むしろ依存される相手かも知れない。「親」になり「祖父・祖母」になった者にとって「親」とは何か。変な存在だ。もう既に死んでしまっている者にとっても「親」は「親」として存在するし、むしろその存在は生前よりも大きい。やはり「親」は「私」から、いや「私の人生」から切り離せない。その意味では「重い存在」だ。その意味では、「親を失う」という意味は別次元のことになる。はっきり言って、「親」は「カミ」である。だから、「親を失った者」にとって、「親に代わる相手」はヤハウェしかない。そこまで、黙想を進めると、4節全体が深い意味を持ってくる。「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者はあなたにこそ憐れみを見いだします」。また、今日の黙示録の言葉も、全然違う意味を持ってくる。

2017 日々の聖句 7月21日(金)
祝福あれ、主の御名によって来る人に。(詩118:26)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(1ヨハネ4:9)

私の黙想:
どこかで聞いたような気がするが見当たらない。この句、口語訳では「主のみ名によってはいる者はさいわいである」。かなりニュアンスは違う。これを「入る者」と訳しているのは、口語訳と関根訳だけである。原語では「ハバー」で「入る」というニュアンス。勿論「入る」となると「どこに」ということが問題となるが、ここでは「神殿」であろう。「来る」と訳すと、「キリスト」が主語となるが、「入る」となると「人間」であろう。その点で岩波訳はこの「者」は単数であると言う。なかなか、難しい。結局、読む者が自由に解釈したら良いのであろう。
私はここではやはり「入る」と解釈したい。神殿に入り、祭壇に近づく者は幸いなり。この言葉こそ、教会の聖堂の入口に飾っておくと良いだろう。ルターはこれを「教会」と解釈したようである。聖公会の祈祷書では「主の御名によって来る人に、祝福があるように」と訳している。カトリックの「礼拝用詩編」ではもっと明確に、「神の名によって集まる人に神の祝福」と訳している。北森先生は、直接的ではないが、この文脈で聖堂建築のことに触れている。

2017 日々の聖句 7月22日(土)
わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。(イザヤ64:5)

主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:61~62)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳と1節ずれているのは、第1節を63章の方に組み入れられているからである。この句を63章の方に組み入れるべきか、64章の冒頭に置くかでかなり意味合いが変わってくるが、今朝はそのことに深入りしない。勿論、聖書に章や節を付けたのはズーッと後代のことであり、もともとはどうなっていたのかはっきりしない。ということで、今日の聖句5節の言葉を含む一塊は岩波訳では4節の「罪の中におる者」の状況が描かれている。関根訳では4節の後半以後を一塊として神に「怒られている者」の状況としている。特にここで用いられている「汚れた着物」という単語は特別な意味を持っている。果たして、それを「汚れた」ということがふさわしい表現であろうか。要するに、ここで意味していることは「当然のこと」、「正常なこと」が汚れているという差別的な表現である。もはや神から見棄てられたら、こうなるという。

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