ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 08/04~08/10

2013-08-19 06:06:23 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 08/04~08/10

日々の聖句2013 08月04日(日)
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。(イザヤ43:5)
弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。(ルカ8:25)
私の黙想:
私は恐れている。今、日本があの時歩んだ道を再び歩くことを。そのためには、なぜあの時、道を誤ったのか。過去のあの道をもう一度正確に見極める必要がある。あの時と今との違いは何か。共通点は何か。あの時の日米関係と今の日米関係との相違は何か。あの時の中国と現在の中国との違いは何か。いろいろ思い巡らすとき、私は恐れる。
預言者イザヤは「恐れるな」と言い、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる」(18-19)と語られる。神は私たちのために「新しい道」を準備し、「恐れるな」と語られる。これは遠い昔のイスラエルの民にだけ語られた言葉であろうか。今、私たちはこの言葉をどう受け止めるべきなのか。
今日は主日、久しぶりに礼拝奉仕(八幡聖オーガスチン教会)の当番に当たっている。

日々の聖句2013 08月05 日(月)

主よ、あなたがお造りになった国々はすべて、御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
パウロの手紙:わたしたちはあなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになることを望んでいます。(2コリント10:16)
私の黙想:
自分たちの民族の周囲にいろいろな民族がおり、それらの民族が国家を形成しているということは現実である。そこには自分たちよりもはるかに大きく強力な民族もあれば、弱小の国もある。それらの諸民族をどう理解するのか。根本的には自他の問題である。自は自とは異なる他と出会って初めて自を意識する。他は決して自の延長ではない。今日の聖句は他を他として認識し、しかも他を自分たちを造った同じヤハウェが 「造られたもの」として認める。たとえ彼らが現実には異なる神々を拝していようと、将来わたしたちと同じヤハウェを拝するようになる、という確信を示している。

日々の聖句2013 08月06日(火)

立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(エゼキエル33:11)
洗礼者ヨハネの言葉:下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。(ルカ3:11)
私の黙想:
今日は広島に原爆が投下された記念日。本日の聖句を読んでも、どうしてもそのことが先行する。「お前たちの悪しき道」がそのことと重なる。原爆はアメリカ政府が「人類的実験」として投下した悪行である。その意味で、原爆に関しては日本人は徹底的に被害者である。しかし広い視点から見ると、これは人類全体の罪でもある。あの時、日本でも原爆開発に手を付けていた事実は否定できない。その意味では原爆投下は時間差で負けただけのことで、事実投下したアメリカを大声で非難することも出来ない。
今、原爆と同類の原発開発に異常な意欲を燃やしている人たちがいる。いや、私たちもついこの間まで核エネルギーの「平和利用」について大きな期待を寄せていた。しかし今や、私たちは知った。原発は原爆と同様に「悪しき道」であることを。それが分かった今、立ち止まり、そこからUターンすべきであろう。「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。これを今、私は神からの警告の言葉として受け止める。

門叶国泰さんの投稿から
新共同訳(口語訳)が「(どうしてお前たちは)死んでよいだろうか」と訳した箇所のマソラ原文は、「何故(ラーマー)」の後には「2人称・複数・(単純な)未完了形」の動詞があるだけであり、「よいだろうか」というニュアンスを含む言葉はない。よって、新改訳・フランシスコ会訳は「死のうとするのか」、KJ・RSVは「why will you die・・・」と訳している。「死んでよいだろうか」と「何故死ぬのか」ではニュアンスが違うのでは? 大したことではないし、また、どちらでも良いようなことだが。

文屋 善明 「なぜ、死のうのするのか」がいいですね。死ぬということが分かっているのに、そちらの方に進んでしまう。そちらの道は死への道ですよ。だから、こっちに帰ってきなさい。この方がはるかに緊迫感がある。いいですね。矢張り原点研究は必要ですね。門叶さん、感謝します。

門叶 国泰 私の直感的な疑問に、見事に答えていただき感謝いたします。滅びが分かっていてそちらの方に向かって歩んでいる!そうですね!だから、立ち返れ!

日々の聖句2013 08月07日(水)

主よ、常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。(詩71:3)
キリストの言葉:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
私の黙想:
今日の聖句は不思議な雰囲気を持っている。詩人は何か困った問題を抱いているわけでもなさそうだし、敵に追われている訳でもなさそうである。要するに、安らかに生活することが出来る住まい、環境、保護を神に願っている。詩人は現在一応穏やかに生活しているが、それは決して「安定した生活」ではなさそうである。私のイマジネイションの中では、難民キャンプでのそれなりに落ち着いた生活、あるいは戦争・災害から免れて仮設住宅での生活が長引いている人々、一応日々の必要は与えられているが、それは決して正常な生活ではない。今日の聖句にはそのような人々の声が聞こえる。9節、18節では詩人は老齢に近いようである。 詩人が願っていることは、老後の落ち着いた生活である。このままキャンプの中で、あるいは仮設住宅で過ごしたくない。何とか、ここから出たいという祈りを感じる。
人生は旅であるとか、この世で生きることは仮の姿であって、永遠の住まいは天国にあるというような観念的信仰によって解釈すべきではないであろう。

日々の聖句2013 08月08日(木)

娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て、あなたのただ中に住まう、と主は言われる。
預言者ヨハネの言葉:これらのことを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
私の黙想:
神が私たちの中に住む、ということが民族の理想であり、そのために「神の幕屋」を準備し、神殿を建ててきた。しかしそれらは朽ち果て、神の住まいとなり得なかった。神が私たちと共に住むということはどういうことか。これがイスラエルにおける究極的課題であった。この課題をキリスト教徒も受け継いでいる。ここから私の黙想は飛躍する。この悲願を背景におくと、ルカ福音書のザアカイ物語が単なる行きずりのエピソードを超えて重要なメッセージを含んでいることが分かる。イエスは上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

日々の聖句2013 08月09日(金)

この土地はあなたたちの安住の地、あなたたちの神、主が与えてくださったものである。(ヨシュア1:13)
わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。(ヘブル4:11)
私の黙想:
「安息の地」「安息」について黙想。その中心的意味は平和に生きること、「シャローム」。「安らかに眠る」ことではない。死んだ後の天国における安息ではない。生きている今の平穏さである。朝起きて隣人に出会い、お互いに「シャローム」と声を掛け合うところから出てくる穏やかさである。それが「安住する」ということに外ならない。
シャロームは私たちが作り出すものであるが、同時に神から与えられるものである。古代イスラエルの民は土地を持たない民族「さすらいの一アラム人」(申命記26:5、口語訳、フランシスコ会訳、新改訳)であった。つまり「さすらい」においては「安住の地」を持たない民族であった。だからこそ、土地への執着が強く、シャロームと安住の地とが強く結びついている。この意味で、イエスは「神の国」を土地ではなく「人々の間」においた。

日々の聖句2013 08月10日(土)

ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく夕べになっても光がある。(ゼカリア14:7)
夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(ロマ13:12)
私の黙想 :
謎に満ちた「ひとつの日」、「日」という節目(枠)がはずされる。口語訳では「長い連続した日」と訳されている。従ってそれはもはや「日」とは呼べない、「永遠の時」(永遠という概念は時という概念も矛盾する)、むしろ「無時間」と言うべきか。それはもはや人間の「時間観念(カントのカテゴリー)」が通じない世界である。それが預言者ザカリアが描く「主の日」である。8節、9節が面白い。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる」。イエスが生まれる直前のユダヤ人たちはこういう日が来ることを夢見ていたのだ。

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