ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 08/11~08/17

2013-08-19 06:15:24 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 08/11~08/17

日々の聖句2013 08月11日(日)

主よ、あなたは御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。(1歴代29:12)
ペトロは足が麻痺した人を癒してから言った。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(使徒3:16)
私の黙想:
権力とは経済と人事の支配である。特に誰を何処に任用するのか、誰を左遷するのかという権限は大きい。従って組織内の人間が権力者に逆らうことは将来性を放棄するようなものである。一般的傾向として、人々は権力者に擦り寄り、甘い汁を吸おうとする。そのためには真実とか、友情とか、組織の全体的利益をも犠牲にする。そして組織は腐敗し、崩壊の道を辿ることになる。
本日の聖句は真の権力者とは誰かということを語る。いかに豪壮な衣を身にまとい、この世の春を謳歌している権力者も神の前では一人の無力な人間に過ぎない。主は彼を生かすことも殺すこともできる。その故にキリスト者はこの世のいかなる権力にも屈しない。イエスは言われた。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。

日々の聖句2013 08月12日(月)
主のヨブへの応答:わたしが大地を据えたときお前はどこにいた?私が海に「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じたのだ。(ヨブ38:4,11)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:1,3)

私の黙想:
海と陸との境界線を決めたのは誰だ。つまり、人間が住める所と住めない所を定めたのは神であるという。ヨブ記では一貫してヨブが神に問いかけている。ところが、38章に至って初めて神がヨブに問いかける。神からの問いかけにヨブは全くことえられない。いや、人間は答えられない。単純な科学主義者は時間を経れば宇宙、人間等についての疑問は全て解明されると信じている。しかし真の科学者は人間が知り得る範囲は知れているということを知っている。近代物理学の祖といわれているニュートンは人間が知り得ることは大海を前にして浜辺に落ちている一片の貝殻に過ぎないと言った(印象記憶であるので正確ではありません)と言う。確かに現代の物理学はニュートン物理学を乗り越え、さらに多くのことを知識とした。しかし、それにもかかわらず、ニュートンのこの言葉は今でも有効である。3.11の出来事は私たちにそのことを教えている。

日々の聖句2013 08月13日(火)

わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュア1:5)
神の約束は、ことごとくいえす・キリストにおいて「然り」となりました。(2コリント1:20)
私の黙想:
モーセの偉大さはヨシュアを後継者として育てたことである。神のご計画(=事業)においては、一人の人間ができることには限りがある。その意味で、神の事業に携わる者の重要な課題は、神から課せられた事業を受け継ぐ後継者を育てることである。例えば、教区主教がなすべき重要な任務の一つが次期主教となるべき人物を育てることである。現在の日本聖公会の問題点の一つが この点にあるように思われる。組織のトップに立つ者はその構成員の全てに対して平等でなければならないという民主主義の原理がそれを妨げているのかも知れない。あるいは目先の多忙さによって将来への展望にまで気が回らないのかも知れない。

日々の聖句2013 08月14日(水)

山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる。今も、そしてとこしえに。
主はあなたがたを互いの愛とすべての人への愛とで、豊かにして下さり、わたしたちの主イエスが来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように。(1テサロニケ3:12,13)
私の黙想:
子供が親に何かをねだるとき、いろいろの説明やくどくどした言い訳は必要ない。ただ「欲しい」と言えばよい。その必要性や価値は親が決める。神への願い事は単純で率直なのが良い。私はこういう人間になりたいと言えばいい。後は神がその道を開かれる。

日々の聖句2013 08月15日(木)
善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。(アモス5:14)
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。(ロマ12:17)
私の黙想:
今日の聖句は個人レベルの倫理について語っているというよりは、民族の存亡が視野に入っている。自民族が生き残るための戦争を否定し、他民族との関係、善意に基づく平和外交の有効性を語っている。現在の国際情勢を考察すると、民族の存亡は軍事力によってではなく、国際世論の動向が大きな意味を持っていることが分かる。重要なことは、諸外国に対して、経済的に、文化的に濃厚な友好関係を築くことである。諸外国から自国の繁栄のために、「なくてはならない国」になること。災害時などでの緊急支援体制を強化すること等が軍事力の拡大よりははるかに有効である。今日は大平洋戦において軍事力による世界への挑戦が破綻した記念日である。あの時、日本は軍事力では自国の存亡さえ危ういということを体験し、軍事力を放棄して他国との信頼関係に身を委ねた筈である。

日々の聖句2013 08月16日(金)

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。(マラキ3:1)
洗礼者ヨハネの言葉:わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。(ルカ3:16)
私の黙想:
伝統的には洗礼者ヨハネを指し示す預言の言葉とされている。問題は後半の「わが前に」である。この「わが」と前半の「わたし」とはどういう関係なのか。今日の聖句に続く部分に「主は突如」聖所に来るとある。突如という言葉に重点をおくと、前ぶれ役としてのヨハネの存在は否定される。つまり、後半の「彼」が「あなたたちが待望している主」であり、キリスト教信仰によればイエスであろう。

日々の聖句2013 08月17日(土)

わたしがエルサレムに与える大いなる恵みについて地上のすべての人々が聞くとき、この都はわたしに名声、賛美、輝きをもたらすものとなる。(エレミヤ33:9)
キリストは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。(使徒2:33)
私の黙想:
エルサレムに住む人々は「ここは廃虚で人も住まず、獣もいない」と言って嘆いている。それが現状。しかし神は「エルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる」と言われる(10節)。涙の預言者と呼ばれていたエレミヤは神において希望を持っていた。
今、日本における預言者たちは「人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所」に立って、「再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる」と語りうるだろうか。

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