ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 04/18

2012-04-19 08:42:26 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は海の中道海浜公園内を約2時間ブラブラ散歩。写真を約70枚撮った。体力がかなり戻ってきた。焼酎のお湯割りを少々飲んで10時半に就寝、今朝は6時半起床。NTにおけるイエス以外の復活物語が頭の中をグルグル巡る。特に面白いのはマタイ27:52,53。体調快調。チュン、チュン
posted at 06:31:34

#losungenj 04.18(wed) 命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。(Ps63:5) 
わたしたちは霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。(1Cor14:15) 
posted at 06:41:35
#losungenj 私の黙想: 
当たり前のことであるが、祈りは「願い」ではない。願いには終わりがある。祈りは賛美である。賛美には終わりはない。「命のある限り」賛美し続ける。賛美こそが神との交わりの中心である。聖公会の夕の祈りを英語では「Evensong(夕べの歌)」と言う。
posted at 06:56:17

今日の名言: RT @meigenbot:
心にだけは収穫期がない。愛の種は絶えず蒔き直さなければならないのだ。 (米飛行家)  
<一言>心の豊かさとは収穫期にあるのではなく、種蒔きのときにある。ここに経済活動としての農業では理解できない農夫の喜びの秘密がある。裏のコメント:牧師という職業は種蒔きであって刈り取りではない。
posted at 07:17:19

「昨日のツイート 04/17」をブログにアップしました。 http://t.co/gtHnhEOk
posted at 08:18:57

今日はウオーキングのために遠賀川(おんががわ)のチューリップを見に出かけました。赤や白、黄色のチューリップがキレイな模様を作っていました。
posted at 16:31:25

<昨日のFBにおける興味深い議論>

三浦三千春

自分がいろいろ、それなりに考え抜いて、やっと、オリジナルに思いついた!!と思ったことが、すでに言われていることだ、と知るのは、複雑な心境である。

「初代教会におけるキリスト教信仰の“ストライクゾーン”」という発想が正にそれ。

私の方は、庶民正典成立論を考えているのですが(^^)

それは、「人数も多く、庶民であり、苦難下にあり(信者であることは世俗的には何の得にもならない)、しかも、各地に散らされてそれぞれに群れを営んでいる無名の信徒たち(彼らはイエス・キリストの事実を直に体験したorその話を親世代からイヤになるほど聞かされた世代)が『是認』した結果残った文書が、正典として結集した(直感的に、「これ、おかしいよ、違うよ」というものは、逆にオミットされた)」ということ。求道中の方に話すと、結構、説得力を感じられるようです。FNで実験済み。


松下光雄:それってがっかりしますよね・・・


文屋善明:非常に面白そうです。それはそれとして「FN」って何ですか。


三浦三千春:FNって、フライデーナイトという会合です。毎週、金曜夜に、通ってる教会の片隅を借りて、海千山千の野郎どもが集まってます。私のウォールで、毎週のようにご報告致しておりますのでご興味あれば。


金井由嗣:自分で考え抜いた上でないと、そこで言われていることの価値も理解できませんから、それで良いのではないのでしょうか。


三浦三千春:「言われていることの価値」。ありがとうございます! まさに学問的な営みって、そういうことなんでしょうね。自分も自分なりに学び、考え、表現、実践していきたい。「庶民正典成立論」もちょっと、まとめてみます。


金井由嗣:学者が言っていることって、大抵は正反対のことを言ってる人が何処かにいたりするわけで。自分が考え抜いた事柄でないと、なにを信じたら良いのかわからなくなるんですよね。庶民正典成立論、僕も大賛成です。文献に残るのは知識人の著作だけだけど、背後にある声無き民衆の信仰を支え得るものだけがあとに残るのだと思っています。


三浦三千春:それって、現在進行形の、「日本の教会」と共に生きていて感じる実感なんですよね・・・。「すべての民が預言者になればいいのに!」民数11:29、「キリストのからだ」(エペソ4:16)


文屋善明:面白そうですが、ちょっと創造的チャチャを入れると「庶民」という視点と「正典」という観念とは矛盾対立するように思います。むしろ「正典化」されないところに「庶民性」があるのだと思います。むしろそれらのバランスを取っている点にマルコ福音書が成立しているのではないだろうか、と愚考しています。


金井由嗣:その視点も大事でしょうね。正典化の後押しをするエネルギーは庶民の信仰からくるけれども、成立した正典や制度が今度は庶民を圧迫、排除するという事態も考えて置いた方が良いかとは思います。


文屋善明:福音の「パウロ化(正典化に近い)」に対してマルコは庶民の間に伝承されているイエス伝説を纏めてパウロ的福音理解に対抗を示している。


三浦三千春:「矛盾対立」 金井氏の言を裏返して言えば、「背後にある声無き民衆信仰者たち“が”支持し、支えたものだけがあとに残り得る」という考え方です。

「庶民を圧迫、排除するという事態」 神ご自身がいろんな局面において働いていてくださって、決定的に大事なものは壊されてない、という意味での信仰を私も有している者の一人です。どこまで過去にさかのぼって問い直すか・・・学問のトレンドがあって、その時代時代のはやり廃りでやるんでしょうが、公平に、ホントに大事なところを押さえてというのは時間と能力の制約上、無理ですわね。

「自分よりはるか前に備えられていた聖書」を神への信仰故に受け入れて、「キリストをお入れした故に尊い馬ぶね」というルター的聖書観で、私としては神を畏れる敬虔な信仰生活を送りたく志しております。

「バランスを取っている点にマルコ」 じっくり考えてみます。

機会あれば、いろいろ大いに議論したいです。


文屋善明:マルコ福音書が「正典」としてNTに入っていること自体が奇跡的。マルコがペテロの秘書的存在だったと言う完全なる誤解に基づいているとされている。


三浦三千春:中華街を歩きつつ考えます。


金井由嗣:僕が念頭においているのは2世紀の正典リスト生成期で、文屋先生が取り上げておられる正典文書の成立期とはちょっとずれるんですが、マルキオンのように純然たるパウロ主義で行きたい人もいれば、グノーシス的な「◯◯の福音書」を保持するグループもあった中で、最終的に残ったのは(文屋先生の言葉を借りれば)パウロと反パウロ的なマルコの両方を含んだ包括的な「正典」を拠り所とするグループ、つまり現在の教会だったわけです。

それは単なる歴史の偶然ではなく、残す価値のあるものが残ったのであり、神の摂理であると同時に命がけで真理を問い、守った人々の努力の成果でもあると僕は思っています。エイレナイオスやその前後の人々の著作を読んでいると、そのことを強く思います。


文屋善明:私が問題にしているのも「正典リスト生成期」で、パウロやマルコが文書を書いていた時代には「正典」という概念もまだ無かったでしょう。彼らにとって「正典」とは旧約聖書で、それもその頃は単に「権威ある文書」で、異端排除の文書としての正典という意識はまだ無かったものと思っています。


三浦三千春:マルコの著者問題については、マルコがペテロの秘書的存在だった、というのは私は結構、信憑性高いと思うのですが(習ったときの教科書がFハリソン=フラー神学校教授の『新約聖書著論』ですから。

ネロの迫害の頃に公にされたとすれば、信仰者の間で、そんなに論争するヒマもなかった。そういう中で、順当に、「書いてること合ってる合ってる」と、散らされつつある群れの間で受け入れられたのでは、と私は素朴に思っているのです。パウロが自分の色、神学を強く出しすぎだから牽制しよう、というような余裕はないのではと。

日本の地方部において異なる教派の牧師さんの間で「あの先生はちょっとキレイにまとめすぎ」とか「教理の理解が雑」とか互いに思っていても、互いに理解し合えるスピリットがあって、相互の交流も協力もちゃんとある、というのに近い状況のように思うのです。パウロvsという図式は、教派が高度に確立した時代・地域の学者さんたちの読み込みが強すぎるのでは、、、、、と私は思っておるのですが、、、、如何なものでしょうか。自説を述べました。


文屋善明:私もマルコがペテロの影響下にあったということについては否定する理由はありません。しかし逆にそうだという根拠もありません。むしろ、それは言い伝えに過ぎないと思っています。しかしマルコ福音書を繰り返し通読しますと「福音」という言葉の使い方などを考えますと、かなりパウロの影響下にあったように思われます。


三浦三千春:否定しがたい「キリストの事実」の共有が強かったのでは、というのが私の説のキーです。日本で祈りながら信仰生活を送っている信徒としての実感から出発して「マルコ」がパウロの影響下にあったってことですね。


文屋善明:はい。影響下にあったと言うことは必ずしも「弟子」であったという意味ではありません。師を批判的に克服するということでしょうか。その根拠は「先生はイエスに会ったことがない」という点にあったのではないかと思います。これも、あれも全て私の独断と偏見に満ちた感想に過ぎません。私は忠実な読者であって、福音書の研究者ではありません。


三浦三千春:「師を批判的に克服」 先生はイエスに会ったことがない。私はあまり、そういう動機はマルコにはなかったんじゃないかという気がするのですが(研究や読み込みの成果でなく、根拠うすき自らの直感ですが。「パウロ先生が手紙で書いてることを、補完しておいてあげよう」くらいの感覚のように思えるのですが。学問的・思想的に対抗しても、得することは未だない状況でしょうし、何よりも、「共に祈っていると何かが起こる」的な感覚の共有が強かったんちゃうかな~と思えてならないのですが・・・。


文屋善明:そうかもしれません。いや、そうでしょう。小さな集団の中で相手を徹底的に批判する余裕はなかったと思います。その意味では「批判的克服」は強すぎるでしょう。むしろ批判的に補完関係というあなたの理解の方が現実的だと思います。「批判」ということは内に秘めた動機程度のことだと思います。


三浦三千春:畏れ入ります。自由な討論こそ、進歩の糧と思いますので、ふつつかものですが今後ともよろしくお願い申し上げます。世代を超えて、互いに真理を追究する者として。尊敬を込めて。

文屋善明:とても、楽しい一時でした。ありがとうございます。

<補遺>FBでの友達が増えてきて、反応が早くてとても楽しい。老人にはもってこいの「社会関係」です。




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