ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第12主日(特定16)の旧約聖書(2017.8.27)

2017-08-25 06:52:13 | 説教
断想:聖霊降臨後第12主日(特定16)の旧約聖書(2017.8.27)

「エデンの園」とする   イザヤ書 51:1-6

<テキスト>
1 わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。
あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。
2 あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした。
3 主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、
荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
4 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
5 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。
島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。
6 天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。

<以上>

1.特定16の福音書
特定16の福音書はマタイ16:13~20で、ここはペトロが弟子たちを代表してイエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、それをイエスが非常に喜んだという記事が書かれている。このテキストとこの日の旧約聖書のテキストとを関係づけることは非常に難しい。だから、ここは旧約聖書のテキストそれ自体として味わうこととする。

2. 第2イザヤのメッセージ
前主日の旧約聖書もイザヤ書で、そこでイザヤ書については概略述べているので、それは省略する。先の主日はイザヤ書56章からのテキストでそれは第3イザヤ書のメッセージだと述べた。この主日のテキストはいわゆる第2イザヤ書に含まれている。第2イザヤは40章から55章までで、この書の特徴は冒頭の「慰めよ、わたしの民を慰めよ、とあなたたちの神は言われる」(40:1)という言葉で特徴づけられる。
この「慰めよ」という言葉、もう既に日本語の訳語として定着してしまっているので、どの訳本でもそのように訳しているが、私には違和感を感じる。ここで述べられている内容は「民を慰める」言葉なのだろうか。広辞苑によれば「慰める」とは「不満な心を静め満足させる」「気を紛らせる」、「相手の悲しみや苦しみをなだめる」という意味である。あるいは他の辞書による「労をねぎらう」とか「あることをして心を和ませる」とか、「なだめる」、「何かをして悲しみや寂しさなど一時忘れさせる」などと説明されている。ここでは決してそのような「一時的な」あるいはなごませる」とか「気を紛らわせる」ことでは断じてない。あるいは「不満な心を静める」ことでもない。むしろ、その種のことではない。もし、まだそこに何らかの「不満」が残っていたら、決して、こういう言葉は出て来ない事柄である。端的に言って、自分自身の罪の故に生じた罰を受けている人に対して、もうその罰は、これぐらいで許しておこうという「罰の停止」ないしはと「罰の完了」を告げる言葉である。もし、そこに第3者がいるとしたら、「よく頑張った、よかったね」という事柄である。さぁ、これを通常の日本語で言ったらどういう言葉になるのだろうか。ヤクザの親分が何らかの理由で服役し、やっと釈放されたとき、子分たちは「ご苦労様でした」という言葉で迎えるであろうが、こういう場合、日本人が日本語で言葉にしたら何というのだろうか。「喜べ、罰は終わった」。「解放されたぞ」。「もう自由だ、どこにでも行けるぞ」。あるいはもっと端的に「やっと終わった」と叫ぶのだろうか。ここでいう、「慰めよ」という言葉はそういう意味である。
要するに、ここでは神による罰としてのバビロン捕囚中の者に対して、「神の怒りは治まった。苦役の時は今や満ち、あなたの咎は償われた」(2節)「もうあなたたちはその罰を十分に受けた」。だからそのことを「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、と知らせなさい、と預言者は神から言われているのである。その神の言葉に従って預言者が民に語りかけた言葉が「慰めよ、わたしの民を慰めよ」いう言葉に凝縮されている。要するにそういうことである。続いて、有名な「荒れ野に道が我準備され、そこを通って祖国に帰る日が近いことを告げる(3節)。これが第2イザヤ書のメイン・メッセージである。キリスト教会ではこれを神による救済のメッセージとして読む。
今日のテキストはその中でも最後の方のテキストで、彼らの心は既に祖国に向かっている。彼らの帰るべき祖国がどういう状況なのかということ述べている。語られている内容は「夢のような」話である。しかし、彼らが実際に復帰した祖国は決してそのような美しい祖国ではなかった。現実的にはほとんど無政府状態で、荒れ果てていたのであるが、第2イザヤはそんなことは語らない。ただ一言、それを臭わせる一句がある。それが3節の「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」という言葉である荒れた祖国を、主が「エデンの園」に変えられる。あなたたちはその主の仕事に参加するのだ。

3.「エデンの園」
この文脈の中で「エデンの園」という言葉が用いられているのは面白い。旧約聖書において「エデンの園」という言葉が用いられているのは、創世記の創造物語以外では3回しか用いられていない。イザヤ51:3、エゼキエル36:35、ヨエル2:3 でこれらの個所を開いて見ると面白い。恐らくエゼキエル書ではイザヤ書の句を想定して語られていると思うし、ヨエル書はまさに神話的に、イザヤの言葉を裏返したような表現となっている。
実は、アダムとエヴァより後の人間は誰も「エデンの園」を見たことがない。創世記を読んでもはっきりしない。要するに、人類史は人間がエデンの園から追放されたところから始まる。つまり、気分としては、将来、もし許されたら再び「エデンの園」で生きることが出来るかも知れない場所が「エデンの園」なのだ。つまり人類史以前の理想郷であり、同時にまた人類史の最終段階において実現されるかも知れない理想社会である。

4.「主の園」
今日のテキストの中心は「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」(3節)である。
ここで述べられている「荒れ野」「荒れ地」とは、人間の手が加えられていない原始林や未開地ではない。むしろ人間の管理の手から離れ、荒れ放題にされていた「荒れ野」である。彼らにとっては「祖国」である。祖国は住民が帰ってくることを待っている。
もう一度、テキストに戻ろう。3節は「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」。ここにも「慰め」という言葉が2回も出てくる。「シオンを慰め」、「廃虚を慰め」、ここでの「慰め」は、なかなか含蓄がある。主の民が不在の間、寂しかったのであろう。その荒れていくさまを見ていて悲しかったのであろう。だから主はそれを慰めるのだが、やはり都市や土地を慰めるというのはぴったりこない。関根先生だけが、ここを「シオンを憐れみ、そのすべての廃墟をいとおしむ」と訳しておられる。もうこれ以上寂しい思いをさせないよ。という主の気持ちが現されている。私はここでの「慰め」は、「一緒にいる」、ここでは場所をなので「ここにいる」という意味であると解する。主が共にいることが慰めである。荒れ地に主が居られることによって、荒れ地が「エデンの園」に変えられる。主の民が祖国に帰ってきたときに、主も共に帰り、荒れ野が「主の園」となる。主の民が不在のところでは、主は一人で働かない。主は主の民のいるところに存在し、そこを主の園にする。今日のテキストの中で最も重要なポイントはここである。勿論、主の民も働くであろう。それは命じられたからというわけではなく、何故ならそこが自分たちの居場所だからである。「主の園」は同時に「主の民の園」でもある。

5.主の園の内実
4節から6節までは、主の園の内実が述べられている。主の園とはどういう園なのか。人間が考えられる理想郷とはどういう場所なのか。

わが民よ、心してわたしに聞け。わがの国民よ、わたしに耳を傾けよ。
げに教えはわがもとから出、わが公儀は諸国の民の光となる。
速やかにわたしはわが義を近づかせ、わが救いは光のように出、わが腕は諸国の民を審く。
わたしを島々は待ち望み、わが腕を彼らは待つ。
眼をあげて天を仰ぎ、また下なる地を見よ。
げに天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、その上に住む者は蚋(蚋)のように死ぬ。
わが救いはとこしえにながらえ、わが義は破れない。(関根訳)

見事な詩である。解説を必要としない。

<< さぁ帰ろう嵐は過ぎた故郷へ、荒れた祖国をエデンの園に>>

最新の画像もっと見る