ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「昨日も今日も、明日も、私は私」

2010-03-02 16:13:59 | ときのまにまに
「昨日も今日も、明日も、私は私」

今年の3月で九州に来て3年になります。まさかわたしどもが九州に住むようになるとは、その直前まで想像もしていませんでした。定年後の充実した生き方を家内とも相談しているうちに、共稼ぎの息子夫婦の近くに住み、孫たちの世話をするのも悪くないと思うようになり、半分は衝動的に九州にやって来ました。
福岡県宗像市のマンションを得て引っ越し、九州で迎えた最初の主日が復活日で、この日は息子の家族や引っ越しを手伝ってくれた娘の家族11人全員で宗像聖パウロ教会の礼拝に出席しました。
その週のうちに、五十嵐主教のもとにご挨拶に伺い、「主ゆるし給わば」九州教区の教会で礼拝奉仕をさせていただきたいと申し出ましたところ、主教さんも喜んでくださり、ホッといたしました。
4月の中半頃でしょうか、主教さんがわざわざ拙宅を訪れてくださり、5月以後の礼拝奉仕のスケジュールが決まりました。奇数月の第1日曜日が宮崎聖三一教会、第2日曜日が直方キリスト教会(6月まで)、第3日曜日が八幡聖オーガスチン教会、偶数月の第1日曜日が延岡聖ステパノ教会、第4日曜日が戸畑聖アンデレ教会ということでした。
細々したことは省略しますが、九州教区の諸教会での印象は聖書を大切にするということでした。礼拝に出席する信徒たちがそれぞれ自分の聖書を持ち、それを開き、読むということです。当たり前と言えば当たり前ですが、わたしが属していた教区の多くの教会ではその日の特祷や日課のプリントしたを準備し、それを読むのが当たり前のようになっていましたから、信徒たちがそれぞれ大きな旧新約聖書を開く姿勢は非常に新鮮でした。聖書への思い(「重い」ではありません)は説教を聞く姿勢にも現れています。わたし自身は特別な場合を除いて原則として「聖書から」以外の説教をしません。とことん聖書のテキストにこだわり、そこからはみ出さないようにしています。説教の場では、その思いと信徒たちとの思いとが火花を散らします。そしてその余熱が礼拝後の昼食の時の会話になり、非常に楽しい時を共有いたします。わたしは九州教区に来て礼拝奉仕をする際にできるだけ「牧会」に関わらないように心がけています。なぜならわたしはあくまでも助っ人であって牧会者ではないからです。しかし説教の後の会話において、信徒が抱くこの世のこと、教会のことなど様々な疑問や喜びや悩みを聞き分かち合うことになります。それもまたとても楽しいことです。
五十嵐主教さんからは毎年のように「次の教区会にはご紹介をしたいので、ぜひ出席してください」と言われますが、いつもお断りしています。わたし自身としては毎主日の礼拝に出席させていただくということが第1の目的であり、どうせ出席するなら聖餐式の司式・説教をさせていただき、少しでもお役に立てばという姿勢を通したいと思っています。
先日、家内から「あなたの趣味は何」と真っ正面から質問され、暫く言葉が出ませんでした。カメラも趣味、料理も趣味、読書も楽しい、温泉も悪くはない。しかし朝、目を醒まし床をから出るのは説教の準備のためです。面白いことに、床の中でうつらうつらしているときに説教のアイデアがひらめくことが少なくありません。それは「言葉」です。その言葉はすぐに書き留めておかなければ消えてしまいます。だから起きるのです。なんて、良い格好をして・・・・・・

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