ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第15主日(特定17)(2018.9.2)

2018-08-31 09:22:47 | 説教
断想:聖霊降臨後第15主日(特定17)(2018.9.2)

汚れ   マルコ7:1~8,14~15,21~23

<テキスト、超々訳>
◆ファリサイ派の人たちと律法学者たちへの批判(7:1~8)
さて、ファリサイ派の人々と律法学者たちとがエルサレムからイエスのもとにまでやって来ました。そして弟子たちのある者が不浄な手、つまり手を洗わないでパンを食べているのを見つけました。もともと、ファリサイ派の人びとをはじめとしてユダヤ人はみな、昔の人の言伝えを堅く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしないことになっていました。また市場から帰ったときには、身を清めないで食事をしてはならないとか、その他にも、杯、鉢、銅器など食器類を洗うことなどについて、昔から受け継がれてきたことを堅く守っている事が沢山ありました。
そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちとは、イエスに尋ねました。「何故、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従わないのでしょうか。手も洗わずにパンを食べるなど、けしからんではありませんか」。
イエスは彼らに言われました。「イザヤはあなたがたのような偽善者について、厳しく批判している。あなたがたが言っていることは預言者の批判そのままではないか。『この民は、口さきでは私を敬っているが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、私への尊敬の念を無意味にしている』。あなたがたは、神の戒めをさしおいて、人間の言伝えに固執している」。
◆群衆への警告(7:14~15)
それから、イエスは再び群衆に向かって語られました。「私の言うことを注意深く聞いてください。外から入ってきて人間を汚すものなんて何にもないんです。むしろ人間の中から出てくるものが人間を汚すのです。聞く気のある人は聞きなさい」。
◆弟子たちへの教え(7:21~23)
「あなたたちはそんなことも分からないのですか。よく考えてご覧なさい。外から入ってきて人間を汚すものが何かありますか。外から入ってくるものは人間の心に入るのではなく、腹の中に入るのです。後は出るだけです」。
イエスはこのように、どんな食物でも清いものとされた。しかし、「人間から出て来るもの、それが人間を汚すのだ。
<以上>

1. 「汚い」と感じるもの
人間には「汚い」と思う感覚がある。人間以外の動物にそういう感覚があるのかどうかということについては、わからない。この感覚は人種、性別、年齢、宗教、文化の違いを超えてすべての人間が持っている基本的感覚である。ところが、何を「汚い」と感じるのかということになると、もう収拾がつかなくなるほど多様である。一口に言って、この感覚は個人差、民族差、文化差が大きい。汚いと感じる対象は事物にとどまらない。心の汚さとか行動の汚さをも含む非常に文化的な価値観でもある。その意味では、汚さの感覚は個人的な要因も否定できないが、大きな枠としてとらえると時代と民族の枠から、つまり文化の枠から誰も自由ではない。もし自由であるとしたらその人は「変人」である。その意味で文化は「内なる自然」、あるいは「内なる環境」であるとも言える。文化は私たちを内から支配する。

2. 「汚れ」の観念は、文化の所産
汚いという感覚の対極にある感覚が「きれい」という感覚であり、これは「美しい」という感覚と重なる部分も大きいが、本質的には異なる感覚である。「きれい」という感覚には「安全・安心」という感覚が伴い、私たちはそれに近づこうとする。その意味で「きれいなもの」は魅力的もある。それに対して「汚いもの」には「危険」という感覚が伴う。どういう意味で危険なのかということについては、それ自体によって異なるが、汚いものはそれに触れるものに危害をもたらす。人間は汚いと感じるものを遠ざけ、自分自身も遠ざかる。「汚いもの」「人を汚すもの」を排除し、遠ざかるというのが、文化であり、本日のテキストでいう「昔の人の言い伝え」(3)である。ここには昔の人が「汚い」といったものは、汚いのであって、それを「汚い」と思わない人間は人間でないという構造がある。この構造が民族差別の感情を生み、排外主義を強化する。

3. 洗うとは
汚い物に対する私たちのもっと単純な対処法は「洗う」という行為であり、何かを洗う場合、もっとも普遍的な方法は水であろう。その意味では「洗う」という人間の行動と水との関わりは古く普遍的である。洗濯や入浴に始まり、汚れや穢れ、衛生問題等々「水の利用」は時代を超え民族を超えている。自然界に存在する水にはきれいなものもあれば汚い水もある。この汚さの度合いは多様であり、日本人が汚いと思う水でも平気で飲める民族もある。
水による洗いと宗教との関係は深い。インド教、イスラム教、仏教、神道、キリスト教等、その宗教的儀式において水は重要な働きをしている。そこには水の持つ「内面的浄化力」信仰がある。この信仰を現代人は失ってしまったようであり、伝統的儀式として維持され、その意味では形骸化してしまっている。この点について日本の神道と仏教の比較研究は面白い。
歴史的にみると原始神道では、地上にある汚れたものは(自然の)水によってサッと洗い流すことができるという感覚を持っていた。禊ぎ(ミソギ)はまさにその象徴である。身体にサッと水をかければ、汚れが消えて汚物が洗い流されるという感覚である。それが一種の清浄感、清潔感と繋がっていた。そもそも自然が美しく、水が清らかだから、ちょっとでも汚れたものはすぐ目立って意識される。そのため、水で洗い流すことになる。
しかしその原始神道の世界では、内面のいやらしいもの、内面の汚れたもの、罪、悪、そういうものを洗い流すという風には決してなっていなかった。もともと縄文人は、内面的な罪、悪という感覚を強くは持っていなかったと思われる。ここが問題なわけである。「人間は本来罪深い存在である」という思想をもたらしたのは仏教である。仏教は内面的な罪、汚れを問題にした。それが、人間には清らかな人間と、不浄な人間がいるという差別感を持ち込むことになった。その仏教が、それまでの原始神道と習合していくわけで、原始神道にも水によって人を浄めるという信仰があったが、それが日本に入ってきた仏教と結びついて、内面化した。そこで、はたしてその内面的な罪は水の力によって浄められるのだろうかという問題がでてきた。 結局、水だけの力では人間の内面の汚れ(業=罪)を処理することができないので、懺悔とか、修行ということが重要性を持つようになる。

4.人間が排泄する水
人間という存在において、汚物の典型は大便であろう。大便というのは、排泄した途端に汚物になる。しかし、その直前までは汚物と思っていない。小便も同じである。排泄する直前まで汚物ではない。なぜだろう。この問題に答えるのはなかなか難しい。謎である。新陳代謝で排泄されたものは、その途端に汚物になるという。
その中で、ただ一つ例外がある。涙である。涙という排泄物は排泄した後も汚物にはならない。なぜだろう。この問題に対する答えも容易ではない。ある人は「唾液もそうだ」と言う。確かに唾液も口から吐き出されたとたんに汚物に変ずるが、時と場合によっては「汚い」と思われず、むしろ「癒やす力」があると信じられている。人体からまた、「水」の中で涙だけがほとんど唯一汚物にならない排泄物である。それはなぜか。

5. 内と外
本日のテキストにおいて、「昔の人の言い伝え」が教えている点は、汚れは常に自分の「外にあるもの」であるということであろう。汚れは外から来る。外からくるものは「汚れている」という思想である。この思想に立つと、常に「内は清く」、「外は汚れている」ので、外の汚れを内に入れないようにと主張する。この規定が、自己と他者、自己の民族と文化は常に清く、正義であり、この文化と対立するものはすべて「汚れ」、悪となる。
それに対して、イエスの教えは根本的に対立する。「汚いもの」は「内から」出てくるのであって、「外から」入ってくるもので「人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(21)。

6. 「腹の中に入り」
実は本日のテキストから省かれている部分(16~20)に非常に重要な言葉がある。こんなに重要なのにこの部分が省略された理由はおそらくこの部分が礼拝の時に読むのにはあまりにも下品だからだと思われる。この部分はイエスと弟子たちだけでの会話である。この会話の中でイエスは次のように語る。イエスは汚れや浄めに関する伝統的な祭儀規定を笑い飛ばす。「あなたたちはそんなことも分からないのですか。よく考えてご覧なさい。外から入ってきて人間を汚すものが何かありますか。外から入ってくるものは人間の心に入るのではなく、腹の中に入るのです。後は出るだけです」(18~19)。この言葉は、ここでの食事の前に手を洗うかどうかということについての議論というよりも、ユダヤ人の間で「汚れた食べ物」として規定されているものへの批判であると思われる。この種の規定は、ユダヤ教に限らず、いろいろな宗教において見られるものである。
ところが日本文化においては食べ物に対する忌避の規定が非常に少ない。ほとんどないと言っても言い過ぎではないであろう。仏教における肉食の忌避という規定が「汚れ」の問題というよりも、殺生の回避というの問題ではあり、その意味ではイスラム教やヒンズー教とは異なる視点に立つと思われる。神道も基本的には食物の忌避という規定はほとんどない。おそらく日本という土壌では食生活について忌避を規定するような余裕はなかったのかも知れない。食べられるものなら、何でも食べるというのが日本文化の根底にあるのかも知れない。(ただし、この段落については、素人の思いつきであり、専門家のご意見を伺いたい。)
ここで語られているイエスの言葉は強烈である。すべての文化の、すべての宗教の食物規定を破壊してしまう。食物規定だけではない。穢れとか浄めという価値観を否定してしまう。キリスト教における聖水とか聖品という価値観も例外ではない。この言葉の前では、宗教という営み自体が無意味化されてしまう。
先ず第1、イエスにとって「汚れ」とは心の中の問題であり、清さとは倫理性となる。第2に、食べ物は心の中に入るものではなく、「腹の中に」入り、心とは無関係に体を養い、役割が終われば体から排出される。人体から排出される汚物から魔術性が剥奪される。第3に、その意味において、すべての食べ物の忌避性は否定される。
このメッセージは、当時の社会において、そして同時に今日でも、非常に大きな福音であり、食における人間の自由の宣言であり、解放である。その経済効果も無視できない。

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