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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/02/05~02/11

2017-02-11 16:42:37 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/02/05~02/11

2017 日々の聖句 2月5日(日)
主は天から人の子らを見渡し、探される目覚めた人、神を求める人はいないか、と。(詩14:2)

わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。(2ペトロ3:18)

私の黙想:
今日の詩14の1節2節を並べると次のようになる。
1 「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
2 主は天から人の子らを見渡し、探される目覚めた人、神を求める人はいないか、と」。
1節が有名すぎて、2節が見落とされがちであるが、2節も1節に劣らないほど重要な言葉である。
これらの言葉は詩人の言葉と言うよりも神の嘆きの言葉として読むべきであろう。全てのことを見通しの神の目においてさえ、「目覚めた人、神を求める人」がいないという。
この嘆きを読んで、ソドム・ゴモラを前にしてのアブラハムと神との交渉の物語を思い起こす。創世記第18章。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と神は嘆き、神ご自身の分身を地上に派遣して現地調査をするという。ソドムの町にはアブラハムの愛する甥のロトの一家が住む。もしソドムの町が滅ぼされるようなことがあったら大変だとおもい、アブラハムと神との交渉が始まる。「あなたは正義の神だと言われているが、もしあの町に50人の正しい人がいても、善人も悪人も一緒くたにして滅ぼしますか」と迫る。神は妥協する。結局、10人もいないと言うことになり、神はロトの一家だけを救出して、町全体を滅ぼすと決意する。そして、その通りに、ソドムとゴモラの町は滅ぼされたという。そのときロトの妻も、自宅に残してきた財産を惜しみ、山の上から自宅の方を眺めたという。ただそれだけで、ロトの妻はその場で「塩の柱」にされてしまった。
この物語を詩14と並べて考えると、「目覚めた人、神を求めた人」と聖書が語る場合の品格のレベルが示される。この世への執着、この世に属する財産への執着、これが問題だという。
この話は子供の頃、繰り返し母が語っていた。それは正に、満州の自宅を捨てて、裸同然で脱出した時の思い出である。

2017 日々の聖句 2月6日(月)
あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申命記8:12~14)

いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。(1コリント4:7)

私の黙想:
今日の聖句、珍しく、新約聖書の聖句がいい解説になっている。もっとも、貧相なマンションの一室に住み、まぁまぁ、食べるのには不自由はしていないとはいえ、贅沢はできず、細々と年金で暮らしていれば、「傲慢にならず」に生活しています。私は今までの生涯で2度裸になりました。一回目は「裸で生まれ」、二度目は満州の自宅から命からがら、逃げだし、抑留生活を強いられ、裸で帰国したとき。そのことを忘れない限り、傲慢になりっこありません。が、人間とは不思議なもので、その経験そのものを「誇り」にしてしまいます。

2017 日々の聖句 2月7日(火)
わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。(エレミヤ27:5)

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。(ヤコブ1:17)

私の黙想:
エッ、「正しいと思われる者に与える」。そうなのか。地上の支配権が「(神の目に)正しい者に」与えられているのか。それは困ったことになる。地上を支配している者は神の目に正しい者になってしまうではないか。口語訳では「心のままに人に与える」となっている。かなり違う。フランシスコ会訳では微妙だ「わたしの意に適う者に与える」で与えられた者が正しいわけではなく、ただたまたま「意に適った」というだけである。しかし、それでも微妙である。新改訳もフランシスコ会訳とほぼ同じ「わたしの見る目に適った者に」だ。おそるおそる岩波訳をみると、新改訳と同じだ。要するに、その人間が正しいかどうかではなく、神の計画に都合が良いか悪いかで決定されているということであろう。アッシリアもバビロニアもマケドニアも、ローマも神の地上支配に役立つと思われたから採用された。アメリカも、トランプも、神の目に有用だと思われたから選ばれた。神は一体何をお考えになっているのか。人間の尺度では計り知ることはできない。

2017 日々の聖句 2月8日(水)
だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。(マラキ3:2)

わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。(1コリント1:7~8)

私の黙想:
入学試験の日か、結果発表の日か。自信があったも無くても、決めるのは向こうである。終末を待つ人々の心境。緊張感、自信と不安とが入り交じっている心の状況。終末論とはその心境を論じる学問だ。決して気楽な学問では無い。「再臨待望」という言葉がある。あまりにも軽々しい姿勢である。むしろ、終末は一日でも遅い方が良い。軽々しい再臨信仰にはシュワイツァーの「中間倫理」の緊張感は理解できないであろう。個人的な「確信」など吹っ飛んでしまう。マラキ書にはその緊張感が漂っている。「献金」一つにせよ、おろそかにできない。

2017 日々の聖句 2月9日(木)
わたしたちの救いの神よ、あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように。(詩65:6)

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:8)

私の黙想:
今日の聖句、何かもたもたしている。その原因はいろいろありそうだが、先ず「ふさわしい答え」。人間は神に対して試験官ではない。その「答え」に対して「ふさわしい」とか「ふさわしくない」という立場にはない。日本語での「こたえ」には「答え」と「応え」とがある。ここではアンサーではなくレスポンスである。人間は神のレスポンスを待っている。ここでは「あなたの恐るべき御業」が、私たちの求めに対するレスポンスだという。口語訳は微妙に「恐るべき業により救いをもって答えられる」と訳している。フランシスコ会訳では「あなたは正義によって不思議を行い、私たちに答えられます」。要するに、どの訳も、「義」と「御業」との関係に苦労しているようである。「恐るべき御業」がすべて「正義」とは限らないが、ここではその「恐るべき御業」が神の「正義」を示すものとして私たちの前に現れている、ということがいいたいのであろう。鬼のような形相が神の正義の印として私たちの現状に対する神のレスポンスである。親に睨みつけられている子供のようなものである。そう読むと1節の謎のような言葉も分かるような気がする。「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげる」。神の前に立って何も言えない。何も言えないのに神の前に立つ。立つこと自体が神への信頼になる。

2017 日々の聖句 2月10日(金)
わたしは(エルサレムを喜びとし)わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(イザヤ65:19)

希望をもって喜びなさい。(ロマ12:12)

私の黙想:
「希望をもって」しか喜べないのは悲劇である。本当の喜びとは「現在」でなければならない。ここに信仰による誤魔かしがある。
「エルサレム」は今も、いや今こそ泣く声、叫ぶ声が響いている。神の約束は常に反故にされる。それは人間の罪の故か。いや、人間の罪は常である。それをはるかに凌駕するところに「神の業」が在るはずだ。神よ、今の中東の混乱をどうなさるつもりですか。酷いじゃ在りませんか。あの約束はもう反故にされたのですか。ローズンゲンの編集者も「エルサレムを喜びとし」という言葉を表に出せないで、省略してしまったではありませんか。そうしたら、今日の市区は宙に浮いた「希望を持ってしか喜べない」現状を露わにしている。私たちは「希望を持って喜ぶ」ことはできない。

2017 日々の聖句 2月11日(土)
わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エゼキエル37:27)

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

私の黙想:
いろいろな説明は抜きにして、結論を言うと、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言うことが、旧新約聖書を貫く最も太い線の一つである(レビ26:12、エレミヤ7:23、31:1、33、エゼキエル11:120、14:11、37:27、2コリント6:16、ヘブル8:10、黙示録21:3その他)。つまり、これが旧新約聖書を貫くいわゆる救済史の最終目標である。言い換えると、救済史と終末論とを結ぶ鍵である。
もうこれだけ述べれば、もうこれ以上言うことはない。

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