ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 03/03~03/09

2013-03-10 10:28:13 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 03/03~03/09

日々の聖句2013 03月03日(日)
わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。(イザ65:1)
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マル15:39)
私の黙想:
これを語る預言者(第3イザヤ)においては、完全にユダヤ教の民族主義をは克服されている。神が語る「わたしはここにいる」という言葉は新鮮な響きを持つ。モーセに対する「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)に匹敵し、それを遙かに陵駕する言葉である。本質的には「ある」という在り方を遙かに越えた方が、「ある」という姿を持って現れる。それをさらに越えて「わたしはここにいる」という。ここに既に「受肉の神秘」が示されている、と見る。

日々の聖句2013 03月04日(月)

立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。(詩44:27)
キリストの言葉:神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)
私の黙想:
詩44は実に言い訳がましいが、領土問題についてのイスラエルの民の「本音」が感じられる。カナンの地に移住したのは、私たちの意志ではなくヤハウェの導きによる。そのためにイスラエルは諸国から憎まれることになった。これはヤハウェの責任だと(1-9)。ところがヤハウェはこの地からイスラエルを追放され、諸国民の間で笑いものにされている(10-23)。というわけで、ヤハウェよ、わたしたちのために立ち上がって、助けて下さいと祈る。神に対してまで、理屈っぽいイスラエル。これが領土問題についてのイスラエルの本音。その本音は今も続いている。何もかも全てヤハウェの責任だ。私たちはただ従っただけだ。これが彼らの主張の根拠。この理窟が現代の国際問題に通じるのか。

日々の聖句2013 03月05日(火)
主は言われた。わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。(イザ19:14)
神は、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。(ヘブ2:4)
私の黙想:
神が人間を「驚かす」。神がその本性を顕すとき、人間は驚き、怖じ惑い、震える。それは旧約・新約を通しての厳然たる事実。しかし、それはめったにないこと、ここでは「再び」という言葉によって、常にではないことを示している。イエスがイエスの本性を顕すとき、水がワインに変化する。それを「知っている者」には驚き神顕現の徴となる。しかしそれを知らない者、ただワインを飲んで喜ぶ「客」には、幸運(ラッキー)にすぎない。それは神たるイエスの隠れた行為である。
通常は神は隠れて、働いておられる。その時には人間の知恵や分別が幅をきかせている。しかし神が顕現し働くとき、人間の賢さはな気もになる。強い光が現れるとき、弱い光は見えなくなる。

日々の聖句2013 03月06日(水)
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。(1サム2:3)
言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハ3:18)
私の黙想:
人間は人を上下に分類し、組織を作る。下に立つ者は上を見上げて、そのように語り、上に立つ者は人を見下げて上から語る。神はそういう人間関係をキッチリ見て矯正される。いや、上に立つ者も、下に立つ者も神によって矯正される人は幸いである。そこで初めて人間と人間との対等な関係が成立する。国と国も同じ。国と地方自治体の関係も同じ。会社の中の上司と部下も同じ。教師と学生も同じ。兄弟間も同じ。夫婦間も同じ。不幸な人、憐れむべき人、可哀想な人とは、上下関係でしか人と接することが出来ない人である。

日々の聖句2013 03月07日(木)
偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。(1代29:11)
天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。(黙14:7)
私の黙想:
ダビデ王の国民に対する最後の演説。神殿の建設を息子ソロモンに託す。今日の聖句、ここまでで切ると、平凡な神讃美に過ぎないが、これに続く次の一句が凄い。「主よ、国もあなたのもの」。この句によって今日の聖句の部分が生きてくる。民族のトップに立ち、国を統治する者の忘れてはならない心構え。王たるダビデが死後も、その後永遠に、民族全体の希望となったのは、この一句による。「主よ、国もあなたのもの」という心構えを失った為政者は、国民からの信望を失い、ただ単なる権力者に堕してしまう。

日々の聖句2013 03月08日(金)
わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれた。(詩18:7、口語訳)
私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました。(使26:22)
私の黙想:
時の支配者サウル王から徹底的に嫌われ追われる身となったダビデ。ダビデに何の非がなくても、いや非がなければないほど、ダビデはその不条理に泣いたことだろう。この詩では「悩みの時に神殿で祈っている」ように歌われているが、追われていたときに神殿に近づくことが出来なかったはずである。無理にこじつけると、神殿から遠く離れた所でなされたダビデの祈りが神殿に届き、神殿の中におられた神がその祈りに応えて下さった、ということであろうか。何らかの事情によって教会での礼拝に参加できない人の祈りも、教会の主である神に届き、神は助けて下さる。

日々の聖句2013 03月09日(土)
主は正しくいまし、恵みの業を愛される。(詩11:7)
神がご自分の義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ロマ3:26)
私の黙想:
何故かローズンゲンの編者は7節の前半だけを取り上げている。文章としては後半の方が議論の余地があり、面白い。「恵みに業」と訳されている言葉は、フランシスコ訳では「正しい行い」、新改訳は単に「正義」、口語訳では「正しいこと」、 岩波訳では「正義の業」となっている。原語では「ツァディック アドナイ ツエダコット アヘヴ」ト一種の語呂合わせになっている。直訳すると、「正義の主は正義を愛する」。当たり前といえば、これほど当たり前なことは他にない。この言葉を心の中で繰り返すと、私の心の中には「八重の桜」で繰り返される「ならぬことはならぬ」と共鳴する。今、日本人に欠けていることは「ならぬことはならぬ」、「ダメなことはダメ」、「なすべきことはなすべき」、「正しい行為は正しい」、という当然すぎることについて当然だと思う心が失われている。「正義の神は正義を愛する」、この根本的な原理に立てば、邪悪なこの世の「理窟」に惑わされることはない。

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