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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/03/29~04/04

2015-04-05 08:38:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/03/29~04/04

2015日々の聖句 03月29日(日)
大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。(イザヤ45:12)
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。(1コリント8:6)
私の黙想:
本日の聖句「勿論」預言者イザヤの言葉である。しかし、「わたし」はイザヤではなく「勿論」「イスラエルの聖なる神」(11節)である。「勿論」、これを聞くのはイスラエルの民である。この3つの「勿論」の間に寸分の隙間もない。これは観念的な言葉の遊戯ではなく、現実そのものである。この現実の上にイスラエル民族は立っている。
10節の言葉はズバリ、私たちの存在の根拠そのものを問いかける。「災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い、なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は」。自分自身の誕生について、両親に向かって「何故、私を産んだのか」と問うものは、災いだという。この災いという言葉は桁外れに強い。この事実(現実)は、ただ感謝して受け入れるしかない。ここに「何故」と問うことは自己の存在そのものが揺るがされている場合であろる。自己は自己に対して、「私は何故生まれてきたのか」と問うことはある。それは自己の存在の意味を問う。しかし、その問いを両親に向かって発しても無意味である。というより、それは「災い」である。問う相手が間違っている。
現代の根源的な病根は、この問いを答えのないところに発し、答えを得ないままに生きるところにある。預言者イザヤならば、スバリ、その答えは「神」であると語る。そこにいささかのたじろぎもない。それが宗教者の「権威」である。

2015日々の聖句 03月30日(月)
天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福してください。(申命記26:15)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放してくださった。(ルカ1:68)
私の黙想:
本日の聖句の場面設定は、イスラエルの民が出エジプトを果たし、ヤハウエが約束してくださった「乳と蜜の流れる」土地で生活を始めるときの、ヤハウエに対する感謝と約束の祈りである。この章で注目すべきテキストは5節の「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」で、もともと「イスラエル」はどういう民族であったのかという古い記憶が記録されている。いわば、これがイスラエルの原点である。「滅び行く一アラム人」という表現に注目。ヤハウエとの出会い、ヤハウエによ救済と導きがなかったらとうの昔に「滅びた民」であるという自覚、それが今、ヤハウエによって豊かな土地が与えられ、その土地から得られる「豊かな収穫物」で生きる民族となった。それであればこそ、私たちは共に生きる「寄留者」と収穫物を分けあい、ヤハウエへの10分の1の捧げ物をする。
さて、そのような文脈の中で語られた本日の聖句の「天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして」という表現には違和感というか、ヤハウエとの「距離感」を感じる。この距離感が申命記が出エジプト記、レビ記、民数記等との違いである。これらの文書においてはヤハウエはイスラエルの民と密着している。しかし、申命記のヤハウエは「天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして」いる。神が「超絶化」されるにつれ、民の側でも自らの原点を忘れ、民の中に富める者と貧しき者との格差が生じ、「見下ろす」という関係が生じる。ちなみに、この「見下ろす」という言葉は口語訳では「みそなわす」と訳されている。

2015日々の聖句 03月31日(火)
災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか」と。(イザヤ29:15)
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。(エフェソ5:11,13)
私の黙想:
イザヤ書には「災いだ」という言葉が23回も繰り返されている(新共同訳)。エレミヤ書には12回、エゼキエル書は6回。イザヤ書の多さが際立っている。
本日の聖句での罰当たりは、「闇の中で」ごそごそ悪だくみを巡らす連中である。表ではさも、信心深そうに神をたたえ、神に祈る振りをしているが、心の中では神から遠くはなれている(13節)。口では「平和、平和、積極的平和」と演説するが、その裏では戦争への道を画策する。ペットは可愛がるが、ペット以外の動物は平気で蹴飛ばす。機関銃を手にして「神のために、神のために」と叫びつつ、足元では人質を平気で殺す。そして、彼らは言う。「誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか」と。預言者は言う、「災いだ」。災いなのは誰か。彼ら自身である。彼らの「闇での陰謀」はすべて明るみに出される。

2015日々の聖句 04月01日(水)
我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。(詩99:5)
ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。(黙示録19:1)
私の黙想:
詩99は、わずか9節の短い詩であるが、その中で「主は聖なる方」という言葉が3回も繰り返される。その意味では神の聖性ということについて考えさせる詩である。「神が聖である」ということはいわば当然のことのように思われるが、神における聖性とは何か、という問いを掲げると、とたんに難問の前に立たされる。それは勿論、倫理性ではない。正義の言い換えでもないし、愛とは別次元の事柄である。人間における聖性のように「神のために聖別される」ということでもない。むしろ人間においては神に関わることが「聖」である。同語反復(トートロジー)になるが、神が神であるということが神における聖性である、としか言いようがない。
人間にとって神の聖性とは、恐ろしさにほかならない。ただオソろしい、コワいのではなく、まさに「畏怖」の体験である。詩99はその体験を繰り返し歌う。

2015日々の聖句 04月02日(木)
慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。(イザヤ40:1)
もう用意ができましたから、おいでください。(ルカ14:17)
私の黙想:
ヘンデルのメサイヤでも歌われる、第2イザヤの冒頭の有名な言葉。神による「慰めの到来」。「わたしの民」を慰めよと命じる「あなたたちの神」、それを命じられている預言者たち。この形の到来を呼びかける「荒れ野の声」(3節)。預言者たちはこの声を荒野で聞く。
ここでやはり「あなたたちの神」という言葉に引っかかる。なぜ、「わたしたちの神」でないのか。なぜ、「わたしのヤハウエ」でないのか。なぜ、この声を「荒野で」聞くのか。神による慰めを必要としているのは「巷の人々」である。今朝のわたしの黙想は「なぜ」、「なぜ」ばかりである。
洗礼者ヨハネは自らを「荒野の声」という。マルコ福音書はイエスを語るに際してイザヤのこの言葉から始める。ヨハネ福音書も洗礼者ヨハネを「荒れ野で叫ぶ声である」(1:23)と語らせている。キリスト教は荒れ野の声から始まる。預言者たちは「荒れ野の声」になる時、人々に「あなたたちの神」と呼びかける。もはや、私の神の言葉をあなたたちに伝えるのではない。あなたたちの神の言葉をあなたたちに伝えるのである。と、今朝の黙想はここまで。

2015日々の聖句 04月03日(金)
わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。(創世記24:56)
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:27~28)
私の黙想:
今日は聖金曜日(受苦日)だ。新約聖書のテキストは明らかにそれを意識している。旧約の方の聖句は、アブラハムの腹心の僕が、主人の一人息子イサクの嫁探しの旅に出かけ、最良の候補者リベカと出会い、結婚の申し込みをして承諾を受け、リベカを連れて一日でも早くアブラハムの元に帰ろうとする。リベカの父ラバンは娘リベカとの別れを少しでも引き延ばそうとするが、それを振りきるセリフである。
アブラハムの僕の旅の目的ははっきりしている。その目的は「探す」ということである。しかしその探す相手は不明である。ターゲットが不明な「探す旅」、何か人生に似ていないか。アブラハムに僕はそのターゲットをほとんど偶然のように見つけた。その喜びが「この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのです」という言葉に凝縮されている。ターゲットがはっきりした今、もう少しも躊躇する時間はない。その目的の実現のために何も彼も、振り払って進む僕の姿が、今日の聖句には映しだされている。
今日の聖句を無理に受苦日に結びつけることはよそう。今日はイエスにとって人生のクライマックスである。

2015日々の聖句 04月04日(土)
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主はすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。(申命記14:2)
父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。(ヨハネ16:27~28)
私の黙想:
本日の聖句はその前の句とセットになっている。「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない」。「主の子ら」つまり「神の子ら」を「聖なる民」と言い換えることによって、「死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない」という命令を補強している。「体を傷つける」とか「額を剃り上げる」とかなかなか含蓄がある。いかにも「人間的」である。他の動物がそういうことをしているのを見たことがない。いかにも人間的な「文化的行為」である。現代風に言うなら刺青とか整形とか極度の化粧ということであろうか。
前後関係を総合すると、つまり「神の子ら」は生まれながらの「聖なる民」であるから、神の前では、そのままで十分に美しい。そこには「人工的な加工」は不要である。というより、あなたは自分自身の「生まれたままの姿」に「不満足なのか」という神からの問いかけである。神はありのままの私を「自分の宝」として大切にしてくださる。

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