ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/04/27~05/03

2014-05-04 10:54:12 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/04/27~05/03

2014日々の聖句 04月27日(日)
人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。(コヘレト3:22)
いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16)
私の黙想:
今日の聖句は「自己満足」だという誤解を受けそうだ。「自分へのご褒美」なんていうつまらない言葉が流行っているが、「自分の業」という句をフランシスコ会訳では「自分の仕事」と訳している。そういうレベルの自己満足ではない。この句に続く言葉を読むと人生の最終段階において自分自身の人生を振り返って「私の人生は良かった」という満足感である。そう思えることが人生における最高の幸せだという。ついでに、死後、それがどう評価されるかは、どうでもいいという言葉さえ添えている。
こういうことをスバリと言い切るところがコヘレトの言葉が非福音的だと思わせるのであろう。しかし自分の人生を振り返って、こう思えないとしたら、その人の人生はどんなに惨めなものであろう。

2014日々の聖句 04月28日(月)
あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。(申命記8:12,14)
あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:7)
私の黙想:
この聖句での「心おごり」はいわゆる「傲慢の罪」とは少し異なる。衣食住が豊かになり、それが当たり前になってしまう「奢り」である。ホセア書13:6では「養われて、彼らは腹を満たし満ち足りると、高慢になりついには、わたしを忘れた」と述べられ、「感謝」を忘れた状態を意味している。
広辞苑によると傲慢とは「驕り高ぶって、人を侮ること」、英語ではarroganzce。それに対して「高慢」とは「自己の才能、能力、容貌などがすぐれていると自惚れて、人を侮るさま」を意味し、英語ではpride。
聖書では「傲慢」とは「神のようになろう」という罪で、「高慢」は「自己を誇ること」を意味する。

2014日々の聖句 04月29日(火)
今日、主に逆らい、主に背くことがありませんように。(ヨシュア22:29)
初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。(1ヨハネ2:24)
私の黙想:
関係の継続・維持は「常に」であり「いつも」であるが、「逆らい、背く」のは「今日」であり「今という瞬間」である。その瞬間の決断、行為により延々と築かれて来た関係が崩れてしまう。ルカによる福音書によると、「ユダの中にサタンが入った」(22:3)瞬間、イエスを裏切ったという。それを日本語では「魔が差す」という。その意味では私たちには「常に」魔が差す危険にさらされている。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(1ペトロ 5:8)。相手は人間の力をはるかに凌駕している悪魔である。神によって守られていなければ、常に関係は破綻の危機に晒されている。

2014日々の聖句 04月30日(水)
わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。(エレミヤ3:15)
神は教会の中に第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者をお立てになりました。(1コリント12:28)
私の黙想:
「彼らは賢く、巧みに導く」という部分、口語訳では「彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う」、フランシスコ会訳では彼らは知恵と洞察力をもってお前たちを導く」、新改訳では「彼らは知識と分別をもってあなた方を育てよう」と訳している。翻訳上の微妙な差はこの句の背景に対する理解による。ここでは「あなたたち」とはイスラエルを「背信の子ら」と呼び、ヤハウェを棄てて異教の神に走った「妻」として描いている。その妻に対する「夫」であるヤハウェの言葉である。「シオンに帰って来い」。帰ってきたら、コウコウしようという約束の呼びかけである。何故、イスラエルはヤハウェを棄てて異教の神に走ったのか。相談しようとしても「あなたは、私の方を向いてくれない」という思いがイスラエルにあったのかもしれない。「(おそらく)寂しかったのであろう」。だから、今度はそういうことにならないように、「心に叶う牧者たちを与える」という。彼らが私に代わって、何でも相談に乗ってくれる。
もう少し細かく見ると、ここにはソロモン以後の南北対立、分裂があり、北のイスラエルは南のユダに対する「僻み」がある。いわば2人の姉と妹とのいがみ合いである。11節では「裏切りの女ユダ」と「背信のイスラエル」という言葉が見られる。まぁ、ここから私のイマジネーションはいろいろに広がるが、ここでストップしておこう。ともかく旧約聖書におけるヤハウェとイスラエルの民との関係は面白い。

2014日々の聖句 05月01日(木)
主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富む。(詩111:4)
この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。(1コリント11:15)
私の黙想:
今日の聖句を読んで、変貌山での出来事を思い出す。あのとき、ペトロは感激し「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」(マタイ17:4)と言ったという。いろいろ考えさせられる。結局、ペトロの申し出は無視された。ペトロが申し出た「記念」は「わたしたちがここにいた」という記念にすぎない。それは記念でも「わたしの記念」である。一体「記念する」とはどういうことであろう。それは単に「私の思い出」ではない。記念とは私を超え、私たちの世代を超え、世々に、各世代の人々が「記念すべき時点」「記念すべき所」に立ち戻るべきポイントである。今日の聖句では「驚くべき御業」が何かを明記していないが、おそらくイスラエルにおける3大記念日(過ぎ越しの祭、七週の祭り、仮庵の祭り)を指しているのであろう。イエスラエルの民は、この記念日は自分たちが決めたというより、神によって定められた記念であるとした。そのことが「記念するよう定められた」という微妙な表現になったのであろう。口語訳では「記念させられた」、新改訳では「記念とされた」。神の御業を記念するとは、そのポイントに立ち返る時、神と私たちとの関係が取り戻され、新しくされる。人間が集まって協議して定めるものではない。そこでは神と人間とが「共に祝う」ということがなくてはならない。
聖餐式とは神によって定められた「記念の式」である。聖餐式が執行される時、そこに神と人間との出会いが取り戻され、新しくされる。

2014日々の聖句 05月02日(金)
すべての命はわたしのものである。(エゼキエル18:4)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモテ2:4)
私の黙想:
全ての人間は神の支配下にある。エゼキエル書18章は一つの諺から始まる。「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」。まだ、そんなことを言っているのかというヤハウェの言葉。この諺は古い。イスラエルで二度と口するな。その上で、すべの人間は私のものであると宣言される。しかも丁寧に「父の命も子の命も、同様にわたしのものである」とされ、死ぬとしたら、それはその個人の問題だという。神の前での個人主義の宣言。ここにエゼキエル書の新しさがある。正義も不正義も、罪も個人のものであれば、当然悔い改めも個人のものである。一人ひとりの個人が悔い改めなければ赦されない。ヤハウェの前では「一億総懺悔」は無効である。預言者エゼキエルはそこまで明瞭に言い切る。これは心に留めておこう。

2014日々の聖句 05月03日(土)
わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。(レビ20:8 )
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)
私の黙想:
7節と8節とはワンセットになっている。7節では「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい」と述べられ、8節では「あなたたちを聖なる者とする」と言う。話者はヤハウェである。ここでは「自らを清く保つ」ということと「掟を守る」ということとが同意義に用いられている。この部分をフランシスコ会訳では「清く保つ」を「聖とし」と訳しており、「聖なる者とする」を「聖別する」と訳している。背景になっているものは、「イエスラエルの民の中に在留している他国の民」への警告である。かなり酷い排他的叙述が続く。「聖」という観念の裏側には「汚」という観念がある。「聖なる者となる」という裏には「汚れを祓う」という儀式がある。聖の強調は汚の排除となる。そこに文化的価値観が入って来るとヘイトスピーチとなり悲劇を生み出す。これが宗教における裏面史である。私たちが「聖」を口にする時、この構造を常に念頭に置いておかねばならない。イエスには人間を穢れた者と見る視点は全くなかった。イエスにおいては全ての人間が聖なる者であった。チョット言いすぎかな。

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