ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/06/28~07/04

2015-07-11 09:52:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/06/28~07/04

2015日々の聖句 06月28日(日)
神よ、立ち上がり御自分のために争ってください。(詩74:22)
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。(マタイ20:1)
私の黙想:
あまり好きになれそうにない詩編である。確かに詩人は廃墟の中に立ち、日々その生活が脅かされているようだ。17節の言葉は面白い。「あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです」。夏と冬がはっきり区別されるように神によって定められているように、国境というものも神によってはっきり線が引かれている、と言う。それを犯す「敵」は「神を知らぬ民」であり、「御名を侮っている」。だから、今日の聖句である。これは「あなたの闘い」であるという。そういう中で、詩人は神との古い「契約」(20節)を持ち出す。あまり好きになれそうもない詩であるが、今日の中東問題を理解する鍵ではある。政治問題と宗教問題をそれほど鮮明に線引は出来ないが、安易な同一化は危険である。

2015日々の聖句 06月29日(月)
あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。(申命記23:6)
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。(ヨハネ12:47)
私の黙想:
バラムとはイスラエルの宿敵モアブの王バラクからイスラエルを呪うために雇われた占い師、しかしバラムはイスラエルを呪うことができず、逆に祝福した、という故事。神の民を呪うことはできないという教訓。イスラエルの子供たちは、こういう種類の話を幼い時から散々聞かされて育つ。

2015日々の聖句 06月30日(火)
あなたはわたしの隠れが、わたしの盾、御言葉をわたしは待ち望みます。(詩119:114)
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)
私の黙想:
純粋に生きるという事は難しい。時と場所と状況とを考えて、いろいろに自分を変化させなければ生きられない。現実はカメレオンなような生き方を求めている。この詩(113~120節)の冒頭の言葉、「心の分かれている者」とはこの現実が求めている生き方である。純粋ではない。詩人はそういう生き方をすることを拒否している。神の掟、律法、あなたの言葉に従って純粋に生きようとする者にとってこの世は生きにくい。いや、生きにくいというよりも、常に「圧力」を受けている。その圧力から私を守るもの、それが「私の隠れ家」であり、「私の盾」である。
冒頭の言葉「心の分かれている者」を他の邦訳ではほとんど「二心の者」と訳している。現実には「二心」どころか、三心、四心、いやもっともっとであろう。あまりにも心が多すぎて、「本当の心」が無くなってしまっている。何が私の心なのか。
ということで、この詩人は「純粋な生き方」を求めている。その純粋さを守るもの、純粋な生き方を豊かにするもの、私が私であることを保つもの、それが「御言葉」である。

2015日々の聖句 07月01日(水)
わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。(エレミヤ23:29)
イエスの言葉:わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。(ルカ12:49)
私の黙想:
今日の聖句は、神の言葉の破壊力を述べている。それは同時に、神の言葉の破壊力が失われている現実の嘆きでもある。サマリアの預言者の退廃(13節)、エルサレムの預言者の堕落(14節)、神の言葉を語るべき預言者たちが神の言葉を語らなくなるとき人間の言葉がはびこる。「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」(16節)。神は「近く」ではなく「遠くにある」(23節)。つまり神の言葉は人間が「慣れ親しむ」ところにではなく、人間から遠く離れた、人間を隔絶したものである。ここでヤハウエが、つまり預言者エレミヤが語っていることは、神の言葉の玩具化に対する鋭い批判である。その当時の堕落した預言者たちは、本物の兵器の恐ろしさを知らない子供が、それを玩具のように弄んでいることの恐ろしさを語っている。あなた方が「ああでもない」「こうでもない」と弄んでいる神の言葉の恐ろしさを知らないのか。子供はおもちゃのピストルで遊んでいればいい(28節前半)。後半はこうだ「しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと主は言われる」。それに続く言葉が今日の聖句である。預言者エレミヤは身震いしながら、これを語っているのであろう。

2015日々の聖句 07月02日(木)
神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。(詩63:2)
イエスの言葉:渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:6)
私の黙想:
「渇望」「切望」「熱望」、身体的欲求ではない、「メンタルな何か」に対する強い欲求。それは私における「欠乏意識」「不足感」「必要が不十分であるという自覚」、「プラトンにおけるエロース」。私にはこの感覚が欠けている。特に今日の聖句のような神に対する渇望感が理解できない。その意味では一種の「欠陥人間」なのか。では、本当は何を求めているのか。いや、その前に、何かを求めていることは間違いない。不足だらけであることは間違いない。しかし、何が欠けているのか、はっきりしない。「本当の私か」、いや違う。今ここに居る私が私である。理想的な私ではないかもしれないが、これ以外に本当の私はありえない。充足感?、達成感?、そんなことは考え方一つでどうにでもなる。幸福感?、そんなことは、まぁまぁのところで満足しなければならないであろう。
いろいろ考えを巡らせて、今日の詩人は渇望している対象がはっきりしていて羨ましく思う。しかもこの詩はそれが得られた喜びの詩である。「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望みあなたの力と栄えを見ています」(3節)以下9節まで。しかし、この「しかし」が、私にとっては問題である。9節で終わっておけばいいのに、なぜ10節以下があるのか。これがあるために、この詩人の美しい心が破壊されてしまう。

2015日々の聖句 07月03日(金)
貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。(詩34:7)
一人の男が群衆の中から叫んだ。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。」(ルカ9:38)
私の黙想:
先ず初めに、ローズンゲンでは「貧しい人」の前の「この」を省略しているは拙い。主が助けてくださるのは「貧しい人一般」ではない。「この人」である。この人が自分の体験を語っているのである。これを一般化してしまったらこの詩が意味を成さない。
次に、この句を口語訳では「この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された」と訳している。「貧しい人」と「苦しむ者」とでは意味が違う。この詩は一応「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌」という状況設定において歌われている。その時のダビデは「苦しむ者」ではあっただろうが、「貧しい人」とはいえない。次に「常に」ではない。この時である。まさに人生における「どん底」での経験を語っている。これを「常に」と訳したのでは、迫力が違う。旧約聖書の神は観念的は普遍的な神ではない。「私の主(ヤハウエ)」である。あくまでも「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された」(4節、口語訳)。この「私」の経験を「わたしと共に主を崇めよ」。「子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう」(12節、口語訳)。私が経験したことを、良いことも、悪いことも、子孫に伝える。そのことによって「私の経験」が民族の経験となる。

2015日々の聖句 07月04日(土)
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。(詩7:2)
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。(マタイ5:11)
私の黙想:今日選らばれている詩7には「ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」という場面設定の言葉がある。これが「クシュ人」だとするとサムエル記下18章で描かれているダビデの息子アブサロムの戦死を告げる「急使」であろう。アブサロムはダビデの部下たちにそそのかされて父ダビデに対して謀反を起こし、ダビデ軍によって殺された。この詩がその出来事を背景にしているのかどうかは明らかではない。しかし、この詩の内容から考えて、それほど複雑な心境はないので、それとは関係がないであろう。
ただ、ここでのダビデの「敵」の特徴は執拗さで、逃げても逃げても追いかけてくる敵らしい。なぜ、ここでダビデは「逃げる」のか、その理由は明白ではない。しかも、「もし私がそれと同じことをしたら」、きっと私に「不正があり」そうされても当然なんだろう、というダビデの告白には、何かしら憂いがある。はっきり「あいつが悪い」と言えない何か、だから話し合って和解の道を求めようとしているムードがあるが、それを相手は受け入れないで、しつこく迫ってくる。おそらく敵側にもそれ相当の「正義」があるのであろう。それはダビデと息子アブサロムとの対立を思い起こさせる要素である。
現実における個人と個人、あるいは国家と国家との対立にはそのような「影」がある。白黒がはっきりしない「灰色」の部分があるものである。そこに「和解」への可能性があるし、またそこが対立関係の執拗さの原因である。

最新の画像もっと見る