ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/07/05~07/11

2015-07-11 10:01:23 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/07/05~07/11

2015日々の聖句 07月05日(日)
主は貧しい者を芥の中から高く上げられた。(1サムエル2:8)
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担ぐだろう。(ルカ15:4~5)
私の黙想:
今日の聖句はサムエルの母ハンナがサムエルを与えられた時に歌った感謝の祈りという設定である。ハンナはサムエルが与えられる以前の状態を「芥の中」という。パウロはフィリピ書でキリスト者なる以前に最も価値あるものと思っていたものを、「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」比べると「塵あくた」(3:8)のように思われるという。塵と芥を組み合わせると「塵芥」となりほぼ同じ意味で「ゴミとかクズ」を意味する。つまり「不要物」「廃棄物」である。ハンナは私はサムエルが与えられる以前は、「ゴミ箱に捨てられていた者」だという。
このハンナの賛美を原型にして、ルカ福音書における「マリアの賛歌」(1:47~55)が生まれたという。
これらの歌の背後にある「聖書的な意味」は多くのところで論じられているので、そのさらに裏にある意味を考えると、ここには大変な女性観が横たわっている。勿論、聖書はそれを否定する意味で用いているのではあるが、女性は子供を産んでやっと一人前の女性として扱われるという女性観がそこにはある。何という非人間性、残酷さであろうか。しかし、今もその価値観を持っている人間が国会議員の中にあるということには驚かされる。ああ、マリアさんはイエス様を産んで良かったね、ハンナさんはサムエルさんを産んで良かったね、では済まされない。

2015日々の聖句 07月06日(月)
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。(イザヤ54:19)
キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)
私の黙想:
「彼を癒やす」という「彼」とは誰か。17節の「彼」だとすると、今日の聖句は面白いことになる。「貪欲な彼の罪をわたしは怒り彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ」。酷い悪(わる)だ。神から打ちのめされ、神が姿を消しても、反省もしないし、赦しを請わない。神はそんな彼を見続けて、神の方が折れ、「彼を癒やす」(18節)という。なぜ、神はそんなことをするのか。ここにその鍵の言葉がある。「民のうちの嘆く人々のために」という。この訳語が正しいのか、訳し過ぎか、私には分からない。他の邦訳とは少し違うようだ。ただ、そんな悪い奴とそれを嘆いている人々がいるのであろう。悪い奴を赦すのは、それを嘆いている人々のためだということなのであろう。19節の前半の「わたしは唇の実りを創造し、与えよう」という言葉を口語訳では18節に入れている。この言葉をどう考えるのか、難しい問題だ。文の流れとしては、この言葉に神の側での気持ちの変化が示されているように思う。今日の聖句は謎に満ちている。「近くにいる者」とは誰か、「遠くにいる者」とは誰か。悪い奴がいるし、それと同時に、それを嘆く者がいる。そして神はその両方の者に「平和」を同じように与えるというのか。この「嘆く」とは何か、執り成しか、悲しみか、悼みか。門叶さんの厳密な「読み」に期待しよう。

2015日々の聖句 07月07日(火)
夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、「わたしの名をとどめる」と仰せになった所です。(列王上8:29)
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。(ヘブル3:6)
私の黙想:
エルサレムに神殿が竣工し、民族統一のシンボル「主の箱(契約の箱)」を搬入した時に捧げたソロモンの祈りである。ここでは神(ヤハウエ)は神殿の外から、神殿に目を注ぎ、王が神殿で「天の神に祈る」という構造になっている。この構造が、神殿の中に神が存在するということに変わる時、神殿信仰の腐敗が始まる。実はその腐敗の始まりはすでにここに萌芽がある。今日の聖句に続く次の言葉にその危険性が潜んでいる。「この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」。「このところに向かって」祈る。神殿に向かって、メッカに向かって、祈るという感覚は危険である。
神殿は「すべての国の人の祈りの家」(マルコ11:17)であるべきだというのがイエスの主張である。イエスはどこにいても上を見上げて「父よ」と祈られた。神殿に向かって祈る姿は福音書にはない。

2015日々の聖句 07月08日(水)
主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。(申命記11:7)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。(1ヨハネ1:3)
私の黙想:
今日の申命記とヨハネ第1の聖句で、先日来の疑問がいっぺんに解けた。「自分で見る」、「見る、聞く」とはいかなる介在物もなく、純粋に見ること。哲学用語で言うと、かえって難しくなるかもしれないが、これが、西田幾多郎の言う「純粋直観」なのだろう。あらゆる先入観を排し、見るという意識さえもなく、その出来事そのものの中に没してしまう経験、外から「主のなさった大いなる御業」を見るのではなく、その中に巻き込まれ、それが「主の業」であるということさえ意識しないで経験すること、イエスの弟子たちがイエスをキリストであるという意識さえ持たずに、実はそれを期待していたとしても、その期待そのものがイエスがキリストであるということを経験した時に破られてしまう経験。ヨハネはそれを「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」という経験であろう。その経験を経験後に反省して、あれが「主の大いなる御業」であったということに気づく。救われようとして救われるのではなく、後から振り返ってみて、あの時に私は救われたのだと自覚されること、今日の聖句において「すべて」と語られていることの不可解さがそのことを示している。人間が神の業の「すべて」を見ることが出来るはずがないが、それを「すべて」と言わざるを得ない、いや私にとっては「すべて」であった。フランシスコ会訳では、この句を微妙に訳している。「主が行われたこれらの大いなる業をすべてその目で見たのは、あなたたちである」。新改訳もほぼ同じ。

2015日々の聖句 07月09日(木)
悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ8:10)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4:4)
私の黙想:
今日の聖句がポンと出て来たら、悲しい時には泣け、と言いたくなる。イエスも言っているではないか。「悲しむ人々は、さいわいである、その人は慰められる」と。しかし、今日の聖句は一般論ではなく限定された条件のもとに語られている。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」(9節)。今日とはモーセの律法が翻訳され、それを解説しながら民衆の前で読み上げられたのである。それで民衆たちは(初めて)モーセの律法を理解したという。それで民衆は「泣いた」という。それで総督ネヘミヤと祭司エズラは「嘆いたり、泣いてはならない」という。こういう状況においてエズラは「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ」と語る。今日の聖句はそれに続く言葉である。つまり、律法が理解されたということは「悲しむべきことではなく、喜ばしい日なのだ」と民族の指導者たちは語る。ここに「律法」を巡って、民族の指導者と民衆とのギャップを読み取ったら読み過ぎであろうか。あるいは、「律法」についての理解の差なのだろうか。律法とは本来は喜ばしいものであるのに、それを聞いて、理解した時、その律法を嘆き、悲しむのは民衆の律法理解が間違っているからなのだろうか。これは律法の専門家の意見を聞かなければならない。ところが、その祭司エズラが「律法学者」なのである。

2015日々の聖句 07月10日(金)
見よ、良い知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く。(ナホム2:1)
イエスは言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)
私の黙想:
預言者ナホムの時代は、北のイスラエル王国はアッシリアによって既に滅ぼされ、南のユダ王国は新興国バビロンに対抗してアッシリアと同盟関係を結び(名前だけの同盟で、実態は支配)、国内ではヨシア王の善政による最後の繁栄期とされる。この後まもなくアッシリアはバビロンに滅ぼされ、ユダ王国も一緒に滅ぼされた。1:1の「ニネベ」はアッシリアの首都。ニネベ陥落の知らせが「良い知らせ」とされている。「山の上を行く」とはおそらく稜線を繋ぐ「狼煙」による情報伝達。
さて、これだけの背景を考えると、ここで語られている「平和」の内実は明白である。「平和」の知らせが、そのまま「滅亡の危機」の到来を示している。

2015日々の聖句 07月11日(土)
ナアマンは言った。「僕は今後、主以外の他の神々にいけにえをささげることはしません。」(列王下5:17)
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ロマ12:2)
私の黙想:
ナアマン大将(1節では「アラムの王の軍司令官」とされるが、私は子供の時から「ナアマン大将」として覚えてきた)が抱える不治の病をイスラエルの「神の人エリシャ」(8節)の言葉に従って行動することによって奇跡的な癒やしを経験した。病を癒やされたナアマン大将が、エリシャに対する感謝の気持として莫大な「贈り物」によって示そうする。それを預言者エリシャはそれを受けることは神の意志に反するということであるとして断る。今日の聖句はその態度を見て感動したナアマン大将が語り、決断した言葉である。この時のナアマンの武士としての潔い態度は実に立派である。それと対照的なのが、この直後に、エリシャの僕、ゲハジがとった恥ずべき行動とが比較され、強烈な教訓となる。イスラエル人たちはこういう歴史エピソードを子供の時から教えられる。私自身、この物語を幼い時から何度聞かされたことか。今朝はあえて、この一連の物語を繰り返えさないこととする。

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