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断想:聖霊降臨後第1主日・三位一体主日の旧約聖書(2017.06.11)

2017-06-09 07:02:16 | 説教
断想:聖霊降臨後第1主日・三位一体主日の旧約聖書(2017.06.11)

天地創造  創世記 1:1~2:3

<テキスト>
1 初めに、神は天地を創造された。
2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
1 天地万物は完成された。
2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

<以上>

1. 三位一体主日
古い祈祷書では、聖霊降臨日の次の主日が「三位一体主日」で、それ以後の主日は「三位一体後第1主日」で、これが降臨節前主日の前の主日まで続いていた。要するに、1年の約半分の主日で「三位一体」という言葉が使われていた。新しい祈祷書になって、「三位一体」よりも「聖霊降臨」の方が重要だということで、現在では「聖霊降臨後」となった。ちなみに、三位一体主日は同時に「聖霊降臨後第1主日」でもある。何故、このような変更がなされたかということについては説明はない。
もう一つ古い祈祷書と新しい祈祷書での大きな違いは、古い祈祷書では聖餐式において、使徒書と福音書だけが読まれており、旧約聖書は読まれていなかった。それも、何の説明もなく変更された。「改訂するが説明しない」というのが聖公会における伝統である。ところで、三位一体主日の旧約聖書にどこが読まれるのかは非常に興味深い問題である。現在では3年周期の日課を読むので、この主日のために3個所が選ばれている。今年はA年で、創世記1章の1節から2章の3節まで読まれる。(B年、C年についてはお調べください)
私は個人的に三位一体主日にこの個所が読まれることを知ったとき、先ずとまどい、次に驚き、そして最後に納得というプロセスを経験した。
ここで一寸道草を食べたいと思う。そもそも「三位一体」という言葉は新約聖書にもない。まして旧約聖書にあるはずがないと思われるが、聖書を隅から隅まで細かく読む人たちがいるもので、旧約聖書の中から「三位一体」を読み取ろうとする。その代表的な個所の一つが実は今日読まれる創世記の個所なのである。この物語の中に「三位一体論」が隠されている。神が人間を想像しようとお考えになったとき、神はこう言われている。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26節)。ここで何か感じませんか。ここで神は「我々にかたどり、我々に似せて」人間を造ろうといわれている。ここで神は「我々」と複数で言っている。実は、ここに神の三位一体性が隠されているという。今では、こんなことを三位一体論の根拠にしているのではないが、昔はそんなことを真面目に論じていいた時代があったのである。

2. 三位一体の神 ついて
なぜ、これが三位一体主日に読まれるのだろうか。「三位一体」とは、キリスト教信仰における「神」を特徴づける概念である。この概念について、説明し始めると切りのない長い不毛の議論となり、到底「理解」というまでには至らない。しかし、「三位一体の神」という言葉で表現しようとしている内容は、決して難しいことではない。イエスご自身は一度も「三位一体」というような言葉を使っていないし、そもそもそんな言葉があることさえ知らなかった。イエスが一貫して語られたことは「神は私の父である」という一点であり、その内実は「神は私を愛しておられる」ということであり、「神は私たちを愛しておられるが故に、いつも私と共におられる」ということ、この一点であった。私たちにとって重要なことは、神についての哲学的な議論でも、神学的な神の教理でもない。「私にとっての神」という経験・信仰である。この「私にとっての神」という経験を、ギリシャ的思想風土の中で何とか理論化しようとしたものが三位一体の神という概念である。従って、ギリシャ的風土から離れてしまったら、あまり意味があるとは思えない議論である。もっとも、この議論があまり意味がないという結論に至るまでには、相当勉強しなければならないが。

3.天地創造
「初めに、神は天地を創造された」。なんと壮大な言葉であろう。すべてはここから始まる。これから後に起こる全てのこと、私たちを取り巻く日常的な出来事、誰がああした、こう言った、という全てのこと、日本の歴史の全て、日本だけではない、世界中で起こっている全てのこと、地球上で起こっている大事件も小事件も、宇宙的な運行もすべてがここから始まる。私たちは不幸なことに、この言葉に対する驚きを持っていない。それは本当に不幸なことである。この言葉を発した最初の人間はどういう気持ちでこの言葉を語ったのであろう。
世界のほとんどすべての民族はそれぞれに自分たちの国、民族、世界についての創造神話を持っている。しかし、これほど単純で、明快な天地創造についての断言はないだろう。その意味では2節以下に展開される「天地創造神話」も、私たちには不要である。ただ一言「初めに、神は天地を創造された」、それだけで十分である。
この言葉を聞いて疑問を感じる人は感じたらいい。もっともっと疑問を感じたらいい。中途半端な疑問が問題である。徹底的に問いつづけたらいい。全てのことを疑って問いつづけたらいい。そうしたら、必ずこの言葉に戻ってくる。そして、この言葉のもつ「凄さ」が分かる。なぜなら、全てのことはこの言葉から始まり、この言葉で終わるからである。「神」でさえ、この言葉の中に置かれてはじめて「私たちの神」となる。

4. 三位一体の神と創造神との合体
さて、この主日に創造物語を読むということは、はっきり言うと、「私にとっての神」と天地創造の神との合体ということである。「私の神は天地創造の神であり、天地創造の神は私の神」であるという信仰告白、あるいは宣言である。これも、先ほどの天地創造の宣言同様、大変大胆な宣言である。もし、この宣言を科学的真理のように、「誰にでも、どこででも、何時でも妥当する真理」として主張したら、他宗教の人々を否定する宣戦布告のようになる。もし、争いごとを好むならば、それもいいが、結局そのことによって何の結果も生まない。
むしろ、重要なことは、この宣言は、「私の生き方」の根拠として、この世に示されるべきである。この世界を私の神の作品として大事にする。天地に含まれるすべての物、事、人を「私の神」が愛しておられるものとして私も愛し、大事にする。このことが具体的な生き方として、また私の価値観として現れることが大切である。
三位一体の神とは、天地を創造された神と、神の愛の徴としての御子と、今もこの世界で働く神との一体性を信じ告白する主日である。

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