ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/11/02~11/08

2014-11-08 15:12:15 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/11/02~11/08

2014日々の聖句 11月02日(日)
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。(詩103:2)
不信仰だったわたしは憐れみを受けました。(1テモテ1:13)
私の黙想:
先ず、語句の問題から。「主の御計らい」と訳されている言葉を口語訳とフランシスコ会訳では単純に「(すべての)恵み」と訳している。新改訳は少しひねって「主の良くしてくださったこと」。原語の「ゲム−ル」は複雑な言葉である。基本的には「報復」とか「施し」等ただ単なる行為というより「自分に向けられた相手の行為」を意味するらしい。面白い用例としてはヒゼキア王が病気になった時、主に祈った。それで病は癒やされた。ところがヒゼキア王は「受けた恩恵」にふさわしくこたえず、思い上がった(列王下32:25)という。この場面でこの言葉が用いられている。つまり、この言葉はヤハウエと民との応答関係が前提になっている。ただ一方的な「恵み」というよりも、「応えられた恵み」である。この恵みの応答関係は一回的では終わらない。繰り返し、継続し、増幅し、発展し、深まり、親密になる。まさに「恵みに恵みが加わる」。それらの全ての経過を忘れてはならない。

2014日々の聖句 11月03日(月)
大いなる集会で神をほめよ。(詩68:27、口語訳)
彼らは毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。(使徒2:45~47)
私の黙想:
さぁ、困った。今日の聖句は何故口語訳なのか。その答えは冒頭の「大いなる集会で」にあることははっきりしている。新共同訳では「聖歌隊によって」とあり、新改訳、フランシスコ会訳では「相つどうて」、文語訳では「すべての會(つどい)にて」である。さて困った。原語の直訳では「合唱隊によって祝福せよ(ベマクヘロット バレフー)」らしい。マクへロス(集会)という単語はここでしか用いられていない。岩波訳では「諸々の集会場で」とあり、次の「イスラエルの源」の「源」を70人訳では「諸々の集会」に置き換えているらしい。つまり、この句だけを切り離して読むのではなく、次の句と組み合わせねばならない、ということか。まぁ、今朝はつまらないことにひっかかってしまったようだ。とにかく人が集まったら神を、ヤハウエを賛美せよ、それがイスラエル人の集まり方だということであろう。神を賛美するために集まり、集まればヤハウエを賛美する。それが神の民(=イスラエル)である。キリスト教会もそれを受け継いでいる。仏教の特徴が黙想(禅)であるとするならば、キリスト教の特徴は賛美である。今でこそ日本人はよく歌うようになったが、昔の日本人は、特に大人の男は歌など歌わなかったものであるが、その時代に日本に入ってきたキリスト教は大人の男に歌うことを教えた。琴と三味線の文化の中にオルガンを持ち込んだ。

2014日々の聖句 11月04日(火)
わたしはお前たちの上に初めのときよりも更に栄えさせる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11)
祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1ペトロ3:9)
私の黙想:
今日の聖句は一旦は廃墟となったイスラエルの国土が回復し、以前以上に繁栄することの預言の言葉である。言葉自体の対象は「国土」である。国家(民族)と国土との関係は切っても切れない。ここで私の頭をよぎることは、バビロンの捕囚以後、どれだけの国民が祖国に帰還したのだろうかということである。聖書の叙述ではほとんどの国民が帰還したことにように描かれているが、実際には大半の国民はそのままディアスポラに成ってしまったのではなかろうか。これがエゼキエルの時代の状況であろう。それ以後、イスラエルの「国家」を考える時、常にディアスポラの存在を考えることなしにはできなくなっている。なぜなら「民族の繁栄」はディアスポラの経済力に依存している部分が大きい。イエスの時代もそうであった。原始教会の宣教もディアスポラの存在抜きでは語れない。パウロの出自もディアスポラであった。
「ディアスポラ」、それは国土から切り離された民族を意味する。つまり「流謫あるいは流民」である。シオニズム問題の背景にはこの「流謫」をどう理解するのかということが鍵となっている。
最近、現在の「イスラエル共和国」は欧米諸国の「満州」だという言葉を読んだ。うーん、満州生まれの私は考えてしまった。

2014日々の聖句 11月05日(水)
わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。(ダニエル9:18)
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)
私の黙想:
神に祈るということに資格はあるのだろうか。カトリックのミサに出てておもうことは、ミサの冒頭で、次のような懺悔の祈りを捧げる。「兄弟の皆さんに罪を告白します。わたしは、思い、ことば、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください」。ここには何か正しい人の祈りは聞かれるという思いがあるのではないか。それは罪深いわたしの祈りなど、神は聞いてくださらないという思いの裏返しではないのだろうか。神は正しい人の祈りは聞かれるが、正しくない者の祈りは聞かれないという思いがあるのではなかろうか。問題は祈る資格である。宗教には「執り成しの祈り」という観念がある。ある宗教などでは「お取次ぎ」というシステムがあり、その為に特別な献金が求められるという。ダニエルの祈りはダニエルの正しさに根拠を置いていない。
イエスの語った譬え話にこんなのがある。「二人の人が祈るために神殿に上った」。独りは品行方正な正しい人であった。もう一人は評判の悪い罪人と呼ばれている男であった。前者は罪人でないことを感謝の祈りを捧げた。後者は祭壇に近づくことも遠慮して遠くから、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人のわたしを憐れんでください』」。そこでイエスは言う。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。神に祈るのに資格はないし、正しい人の祈りが特別に聞かれるわけではない。私たちの祈りには「イエスのみ名」以外に何も「お取次」はいらない。考えてみると、これは非常に大きな恵みである。

2014日々の聖句 11月06日(木)
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。(詩42:3)
わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(1ヨハネ3:2)
私の黙想:
「命の神(エル ハイ)」、珍しい表現である。こんな表現考えたことがない。通常「生ける神」である。岩波訳によると「生けるエロヒーム」と「生けるエル」との使い分けらしい。文脈から推測すると、ここでの「生けるエル」には「神」よりも「生命」の方に重点が置かれていることが分かる。日本語のニュアンスでは「生きている母」と「命の母」の違いか。その場合、「産んだ母」というより「生命の源としての母」である。従って、ここでは生きている神というよりも「私のうちに在って、私の元気の源としての神」というニュアンスであろう。詩人は今、その神を求めている。哲学的な、神学的な、観念としての「神」ではなく、私の命の源泉としての神を求めている。詩人は疲れ果てている。何に疲れているのだろう。「人は絶え間なく言う『お前の神はどこにいる』と」問いかけている。この問いかけに疲れ果てている。いわば「神についての議論」に疲れている。理屈に疲れている。理屈には生命はない。詩人が求めているのは理屈ではなく生命だ。生きるということを求めている。書斎から出て、外気を吸い、野山に出かけて自然に触れる。鳥の声を聞き、花の香りを感じ、川のせせらぎに触れたい。「涸れた谷に鹿が水を求めるように」(1節)。その思いが「命の神(エル ハイ)」という短い言葉に凝縮されている。

2014日々の聖句 11月07日(金)
いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。(詩32:2)
イエスの言葉:悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ15:7)
私の黙想:
今日の聖句、確かにそういう人が居れば「いかに幸いなことでしょう」。現実にはそういう人はありえない。「主に咎を数えられず」の方は主の側の問題であるから人間側からとやかく言うことはできないが、「心に欺きのない人」、そんな人が現実にいるのだろうか。この言葉口語訳では「霊に偽りのない人」と訳されている。フランシスコ会訳では「心に偽りのない人」、要するに、「良心的呵責」がない人、あるいは「罪の自覚のない人」を意味するのであろう。ああ、そうだ。そういう人は居る居る。人を殺しても、平気で「人を殺してみたかった」と言える人。人を騙しても、他人の物を盗んでも、最近では高齢者の万引きが驚くほど増えているらしい。弱い者をいじめても、公金を平気で私物化お役人たち、危険な原発を安全だ安全だという人、こういう人たちは自分の心に欺いていないのだろうか。実は良心的な人ほど罪の意識は高い。普通の人が平気でおれる些細なことにも、心を痛める。高潔な仏者は小さな虫の生命を奪うことに心を痛める。そして動植物の生命を奪ってしか生きれない人間の業を嘆き、供養する。

2014日々の聖句 11月08日(土)
主は弱り果てたわたしを救ってくださる。(詩116:6)
パウロの手紙:わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように。(エフェソ3:14~16)
私の黙想:
今日の聖句では、冒頭の「主」を修飾する「哀れな人を守ってくださる」という形容詞句が重要である。主とはこういう方だから、こうこうしてくださるという構造になっている。この句については他の主要な邦訳では独立した文章で、その訳が面白い。先ず口語訳では「主は無学な者を守られる」となっており、文語訳の「愚かなものを護り給う」の伝統を受け継いでいる。フランシスコ会訳では「主は素朴な人を守ってくださる」で、これもその路線であろう。新改訳は面白い。「主はわきまえのないものを守られる」と訳している。つまり「失礼な奴でも守る」というニュアンス。それぞれのではそれを受けて、私を救ってくださる内容が異なってくる。哀れな私が「弱り果てた時、わきまえのない私が「貶められた時」、無学な私が「低くされた時」、素朴な私が「衰えた時」。このように訳語を並べただけでも楽しい。おそらくヘブル語原典では、これらのことを全部ひっくるめた意味なのであろう。どの訳がいいとか、悪いとか判定する必要はない。私としては、何事でも私は「わきまえがない」ので、そのことによって誰かから「貶められた時」、つまり馬鹿にされた時、神が助けてくださるということはとてもありがたい。

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