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断想:聖霊降臨後第12主日(特定14)(2018.8.12)

2018-08-10 08:20:20 | 説教
断想:聖霊降臨後第12主日(特定14)(2018.8.12)

民衆のつぶやき   ヨハネ6:37~51

<テキスト、主に編集句(黒字)>
37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。

44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48 わたしは命のパンである。
49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。

51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
<以上>

1.聖書研究と説教
キリスト教における説教という営みは、聖書に基づき、聖書のメッセージを現代の状況(コンテキスト)の中で、状況に対して語ることである。たとえ、それが主日礼拝における説教であれ、結婚式における説教であれ、葬送式における説教であれ、基本的には同じことである。従って、説教者が先ずなすべきことは、聖書の言葉の正確な理解ということであり、そこが曖昧になると、それがどれ程感銘深い講話であっても説教にはならない。ここまでのところは、説教を聞く者も、話す者も共通の理解であろう。
ところが、説教という営みの難しさは、すべてこの点から生じる。先ず第1の難しさは、「聖書のメッセージ」というものを、そう簡単に読み取ることができない。先ず、旧新約聖書各巻の文学的スタイルの相違ということもあり、あるいは各巻の著者の叙述にスタイルの違いがある。その意味では、聖書は多種多様な文章の集合体であって、聖書のメッセージという言葉が示すような形で存在しているわけではない。一つ一つ丁寧に読み、分析し、理解していくしかない。聖書学を専門にしている学者ならば、一生かかって一巻だけを研究することが尊敬されることもあるだろが、普通の牧師はそういうわけにはいかない。従って、どうしても聖書学の専門家の研究結果に依存することになる。それはそれでいい。せいぜい、優れた研究とつまらない研究とを判別できれば十分であろう。

2.テキストの断片性
説教の本質は断片性にある。先ずテキストの断片性。たとえば、ヨハネ文書を取り上げても、著者がその文書全体で言いたいメッセージがある。と同時に、その文書の各部分は、それぞれさらに分節されたメッセージを持っている。時には、それらの部分は相互に対立したり、矛盾したり、全然関係がなかったりする。しかし、その文書全体の中ではそれぞれの部分はその部分に託された役割を果たしている。学問的に研究し、解釈するということは、それぞれの部分と全体との関係を問うことでもある。
ところが説教というものは常に全体を語るわけにはいかない。礼拝の中でなされる説教には自ずからテキストの長さに制限があり、特定の主日にはその日のために定められた日課(ペリコーペ)があり、説教者はそれをテキストとして説教する。問題は、そのペリコーペの切り方にもある。そこからどこまでをその日のペリコーペとするのか。説教者が自由に選ぶこともできるが、聖公会やカトリック教会のように定められているところもある。説教者は時には、なぜこんな切り取り方をするのだろうかと疑問に思うこともある。切り取り方でメッセージの枠が決まってしまうこともある。

3.メッセージの断片性
説教において、その日のペリコーペに盛られているすべてのメッセージを体系化して語ることが難しい場合もある。常に福音の本質が取り上げられているわけでもない。時には福音的視点から見ると末梢的なことが取り上げられている場合もあるし、霊的でない時もある。教会という組織に関する議論が主題となっている場合もあるし、夫婦に関する教えもある。それらのすべてが、キリスト者の生きる現実の一部である限り、それも福音の一部である。その意味で説教も主日ごとに主題が変わることも当然である。だから説教とは断片的にならざるを得ない。しかし、その断片はあくまでも福音の断片であって、福音とは無関係な随想ではない。そのトークが福音の断片であることの根拠は、あくまでもその内容が聖書のテキストとの関係にある。
その意味で、本日のペリコーペから説教を準備することはかなり難しい。テキストに忠実であろうとすると、ペリコーペからはみ出してしまう。そうすると断片性を徹底して、極微のポイントにメッセージを絞り込む必要があるであろう。具体的に当たってみよう。

4.テキストの分析
さて本日のテキストはヨハネ6:37~51である。こういう切り取り方をした人たちは、この切り取り方によって一体何をメッセージとして期待しているのだろうか。確かにヨハネ福音書の第6章は切り取り方が難しく、研究書や注解書によって様々である。そもそも、この部分は資料的にもかなり錯綜しており、一筋縄ではいかない。細かく分析すると、主に2つの資料が組み合わされているように思う。今、仮にこの2つの資料を分けてみると以下のようになる。
(A) <生命のパン>(41~43,48~51)
一つはカファルナウムの会堂でのユダヤ人指導者たちとの「生命のパン」をめぐるユダヤ人たちとの論争である。論争そのものは、6章1節から15節まででなされたパンの奇跡に端を発し、22節から36節まで続き、本日のテキストに引き継がれ、52節から59節まで続く。
41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
42 みんなの者は食べて満腹した。
43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい」。
48 わたしは命のパンである。
49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。
(B) <イエスを信じること> (37~40,44~45)
もう一つは生命のパンの論争とは主題も雰囲気もまったく異なる、別な資料に基づくものであると思われる。本日のペリコーペは37節から始まるが、この個所は、普通36節「しかし、あなたがたはわたしを見ているのに信じない」から始まるとされる。つまり主題は「イエスを信じる」ということであろう。
37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

5.分析の結果から
さて、以上のように振り分けるとそれぞれの論旨が明確になる。生命のパンについての議論は、6章全体にわたり、このペリコーペの内部だけで本格的に取り上げることは難しい。もし取り上げるとしたら、イエスが生命のパンそのものであるという宣言に対するユダヤ人の「つぶやき」という点が主題となるだろう。
「イエスを信じる」ということについての議論には、論点が4つある。第1は、神の働きかけがなければイエスを信じることはできない。第2は、イエスは神の御心を行うために遣わされた。第3は、イエスは自分のもとに来たものを決して追い出さない。第4は、神の御心はすべての人がイエスを信じて永遠の生命を得ることである。この主題も大きい。一回の説教では荷が重すぎる。

6.もう一つの主題
さて、以上の2つの主題の谷間に、もう一つ重要な主題がある。どちらにも属さず、独立して光っている。それが46節の「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」という言葉である。私はこの言葉がここに出てくることに、むしろ驚く。
この言葉がここに出てくるということは、ここで取り扱っている事柄の重要性を意味している。つまり、この言葉は単にここで語られている主題を説明のための言葉ではなく、逆にここで扱われている事柄が、この言葉を説明しているのである。つまりパンの出来事がイエスが神から遣わされた者であるということを立証し、ユダヤ人との論争がそのことを主題としている。この言葉はヨハネ福音書の冒頭においてヨハネが展開した宗教詩に対して編集者が付加した言葉のまとめである。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)を、イエスの人生の一コマからサポートしている。その意味ではパンの奇跡とそれをめぐるユダヤ人との議論は、ヨハネ福音書全体を凝縮している。この言葉こそヨハネ神学の「究極的なキリスト論的信仰告白」(新共同訳新約聖書略解、日本基督教団出版局、244頁、松永希久夫)であるといわれる。

7.究極の信仰
「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」という言葉と、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)の言葉とは一体となって、次の3つのメッセージを語る。
第1に、すべての神観の否定
第2に、イエスは「父」と称するイエスの神の御心を完全に生きた
第3に、イエスだけが私たちにとって神である
これら3点について、少し解説しておく必要があるだろう。第1のすべての神観の否定という中に、イエスの神観は否定されないのかという疑問である。当然、ここには矛盾があるが、イエスの神観をそのまま神観として受け入れるのではなく、イエスがその神観に基づいて生きたという事実を媒介とする。第3のイエスが神であるという場合、それもやはり神観ではないのか、という疑問がある。これはイエスに対して、私たちが持っている神観を当てはめるのではなく、イエスを「神」としか言いようがないという否定の契機を内に含んだ告白である。
これが、ヨハネが到達した「福音書神学」の極地である。この極点から、原始教会以後の教会の「イエスは神なのか、人間なのか」という神学的議論が始まる。

8. イエスはパンである
「イエスは神なのか、人間なのか」という議論はヨハネ福音書以後の古カトリック教会における議論であって、そういう議論へと展開する含みを持っている問題が「イエスはパンである」というここでの主題である。この主題をめぐって、弟子たちをはじめユダヤ人の中で広がった「つぶやき」をヨハネは取り上げている。 イエスがパンであるかどうかということは、それこそキリスト教が立つか倒れるかの大問題である。イエスこそが「本当のパンである」と信じ、主日ごとに教会に集い、イエスの体に与り、生きるエネルギーを与えられる者が、真のクリスチャンである。
ところが、「イエスが命のパンである」ということを信じることのできない者は、「つぶやく」。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」(6:42)と。それに対してイエスは「つぶやき合うのはやめなさい」(6:43)と言われる。

9.「つぶやき」について
聖書において、「つぶやき」ということには特別な含みがある。単に、ぶつぶつ不平を言うというような不満の表現ではなく、敵意を含んだ不信の表現である。「つぶやき」ということについて、パウロは出エジプトの出来事を引用し、エジプトを脱出したイスラエルの民に「つぶやく者」がいたが、彼らは「滅ぼす者」によって滅ぼされた、と忠告する。(1コリント10:10)
エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野での生活が続くとエジプト時代の生活を思い起こして「つぶやき始めた」。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った、鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)。 こうしてイスラエルの民には「マナ」が与えられた。
また、民数記には、次のような記事がある。
「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした」(民数記11:1)。この時は、モーセが神にとりなしの祈りを捧げて何とか神の怒りを抑えることができた。
要するに、聖書においては「つぶやき」とは、神の行為に対する「不満」を意味する。
本日の福音書に続くところで、「イエスは天から降って来たパンである」ということについて、弟子たちの中にも「つぶやく」者がいたこと記録されている。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6:60,61)。 そして、この「つぶやく者たち」は、「このために、弟子たちの多くは離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)。
さて、最も重要な問題は、「イエスは天から降って来たパンである」ということに、「つぶやき」を持たないということはどのようにして可能か、ということである。つぶやいた弟子がいうように、「イエスがパンである」という話は、常識的にみれば「実にひどい話だ。だれが、こんな話をきいていられようか」(6:60)というのが当然であろう。誰が、そんな話をまともに信じることができるのだろうか。
それに対するイエスの答は、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとにへ来ることはできない」(6:65)と仰る。この引き寄せるという言葉は、船とか車とかのような重いものを力一杯引っ張る時に使われる言葉である。神が引き寄せ、引っ張るということが先ず先行する。本当は、「イエスがパンである」という信仰は私たちの能力では受け入れることはできない。私の限界を超えた出来事である。しかし、ここにこの信仰に至る「テコの原理」が働いている。それが信仰における「神のイニシアティヴ」である。神が私たちがこの信仰を持てるように働いている、ということを信じるか、どうか。この神のイニシアティヴに対して「不満」があるか、どうか。これが私たちの「ささやかな信仰」であり、この「ささやかな信仰」がテコとなって、「イエスがパンである」という大きな信仰が与えられる。

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