ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 1/29~2/4

2012-02-09 06:47:11 | ローズンゲン
losungenj 2012.01.29(sun)
主はあなたを見守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。(詩121:5-6)
あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威がありますように、アーメン(ユダ24-25)
私の黙想:
この詩(121)は冒頭の一句が重要だ。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」。この質問に対する答えが今日の聖句。しばしば、答えよりも質問の方が重要なことがある。その典型。答えてしまうと白ける。質問形のままで賛美する。

losungenj 2012.01.30(mon)
主よ、わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。(イザヤ38:16)
女はイエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ5:27-28,34)
私の黙想:
ユダの王ヒゼキアの健康回復の祈り。王の健康は個人の肉体を超えて国家の健康でもある。国の指導者が歪むと、公僕も歪み、国家は病む。今、日本は瀕死の状態である。主よ、群衆の中に紛れ込み、後ろからあなたの服に触れさせて下さい。

losungenj 2012.01.31(tue)
子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか、と主は言われる。(マラキ1:6)
永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。(1テモテ1:17)
私の黙想:
神に対する「尊敬」とは、どういう態度を表現しているのだろうか。神に対する姿勢は人間のあらゆる言語表現を超えている。まして人間関係の類比として表現できない。父親に対する尊敬には同情や理解や赦し、時には軽蔑さえも含まれて成立する。神への尊敬とは純粋。言い換えると観念的〔イデア)である。

losungenj 2012.02.01(wed)
主よ、わたしの神よ御名のために、わたしに計らい恵み深く、慈しみによってわたしを助けてください。(詩109:21)
キリストの言葉:わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ10:28)
私の黙想:
「わたしに計らい」という訳語は不明瞭。おそらく「神は、私のことを考え、私のためにベストを尽くし、実現して下さい」という意味であろう。身勝手と言えば身勝手なように思われるが、この祈りは究極において「あなたの御心のままに」という祈りになる。今日から2月、今月も「あなたの御心のままになりますように」。

losungenj 2012.02.02(thu)
わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。(エゼキエル31:29)
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。(1ペトロ1:18-19)
私の黙想:
ここでいう「汚れ」とは宗教的概念で「穢れ」という言葉を使うべきである。この穢れを洗い清める事を「禊ぎ(みそぎ)」という。洗礼とは元来「禊ぎの儀礼」であった。穢れとか禊ぎが世俗化したことによって日本人から罪の感覚〔宗教性)が鈍り、「神の前に立つ」という厳粛さが失われてしまった。政治から「まつりごと」が失われた悲劇。

losungenj 2012.02.03(fri)
「足がよろめく」とわたしが言ったとき主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。(詩94:18)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)
私の黙想:
1936年生まれ、戦前、戦中を外地〔満州)で生まれ、育ち、戦後の混乱の中、帰国、荒れる思想的状況の中で小中高、神学校・大学を過ごした。まさに「足がよろめく」人生であった。まぁ、よく乗り越えてきたと思う。「主よ、あなたの慈しみが支えてくれました」と感謝する。
文屋知明
旧満州から引き揚げで来る時に、母が「子供たち、兄弟三人を日本の地に着かせて下さったら、神の御用にお使いください!」と言う必死の祈りを捧げたと聞かされました。周りの人が「トモ(私のこと)ちゃん、まだ生きているの、かわいそうね・・」と呟いたとも聞いてます。生きていることが「かわいそうね!」という極限の状態だった事実が小説以上だったことが分かります。その後も、神は、苦しく感じても、最善の道を歩ませて下さったことに感謝します。<(_ _)> 善明アニキにも世話になったなー、ありがとう(^^♪!

losungenj 2012.02.04(sat)
ノアは主の好意を得た。(創世記6:8)
人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(マルコ13:27)
私の黙想:
なぜノアだけか。悪の蔓延る「世の中」において、何故ノアだけが「神に従う無垢な人」であり得たのか、私たちはそのことが知りたいのに、肝心のことについて聖書は説明しない。選びの神学も予定説の説明にならない。神学はとは悪の研究唐始まり〔松村克己)、哲学の本質とは「善の研究」〔西田幾多郎)で始まる。

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