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断想:聖霊降臨後第6主日(T8)の福音書

2016-06-25 08:00:06 | 説教
断想:聖霊降臨後第6主日(T8)の福音書
エルサレムに向かって  ルカ9:51-62
     
1. 「旅空に歩むイエス」
ルカ福音書についての非常に優れた研究書『旅空に歩むイエス』(講談社)を著した三好迪氏は「まえがき」で次の様に記している。「人生は旅である。そして行く道である。イエスもこの世の人の子として一人前に旅の道を歩んだ。しかし、人はそれぞれによって行く道は、そしてたどり着く先は異なる。イエスはどんな道を歩んだのか。旅空に歩み、旅空に行ってしまったのである。それがルカ福音書のイエス像であり、この福音書の課題である」。この文章の中の「旅空」という言葉には不思議な雰囲気が漂う。いわゆる「旅の空」ではない。
さてルカ福音書の構成は9:51を挟んで前半と後半とに分けられる。後半は明らかに「エルサレムへ向かう旅」として描かれる。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。必ずしも、そこに含まれているすべての資料が「旅行記」という訳ではないが、著者ルカは「旅」という枠の中にすべての資料を含めてイエスの活動を描く。
三好氏の言う「旅空」ということについての秘密が51節の短い文章の中に暗示的に込められている。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。イエスにとって「エルサレム」と「天に上げられる時期」という言葉は密接に結びついている。つまり、イエスにとって「エルサレム」は終着駅ではない。むしろ「天」への出発駅である。イエスはそこに向かう。

2. イエスのエルサレム行きの意味すること
イエスがエルサレムに向かう決意を固められたということは、要するに先週の福音書の言葉でいうと、「必ず苦しみを受け、長老、祭司長律法学者たちから排斥されて殺される」(9:22)ということを自分の使命として受け入れたということである。弟子たちにとってもイエスがエルサレムに向かう決意をなさったということは非常に重要なこととして受け取ったということは事実である。いよいよその時がきたと心をわくわくさせるような決意である。
ここで弟子たちはとんでもないことを期待する。弟子たちにとってはイエスはエリヤの様な預言者である。否、エリヤその人である。その意味ではイエスのことをエリアであると言っているという「人々」(9:19)の意見は弟子たちの意見でもあった。ここでペトロが「神のキリスト」というが、その内容はエリアとそれ程違いはなかった。そのことが本日のテキストに露呈されている。
イエスのエルサレム行きの決断は弟子たちにとってついにエリヤが立ち上がったことと同じ意味を持つ。この日のために彼らは人々から馬鹿にされ、軽蔑されてもイエスに従ってきたのである。いわば彼らはイエスがエリヤの再来であるという彼ら自身の確信に彼ら自身の人生を賭けてきたのである。そして彼らの期待する預言者エリヤとは時の権力者アハブ王を堂々と批判し、王から追われ、命を狙われた人物であり、最後には王に非を認めさせ偶像礼拝をイスラエルの国から排除した預言者である。彼らがイエスに重ねた預言者エリヤの姿はそういうものである。弟子たちはイエスがいつエリヤのエリヤたるところを発揮するのか期待して待っていた。そしてついにその時がきた。

3. 預言者エリアの事例(2king1:1-18)
預言者エリアの最晩年の出来事を簡単にまとめておこう。おそらくイエスの弟子たちが思い浮かべていた預言者エリア姿はこういう者であったのであろう。
エリヤの最晩年、エリヤと対決したアハブ王が死に、その息子アハズヤが王に即位してまもなく、アハズヤ王は自分の王宮の欄干から落ちて大怪我をした。そのときアハズヤ王は異教の神「バアル・ゼブル」に病気治療の祈願をさせるために使者を送った。それを聞いたエリヤはさっそくその使者たちのところに行き、アハズヤ王が真の神を信じず偶像により頼む限り、今寝ている寝台から降りることなく、死ぬであろう」と預言した。それで使者たちはあわてて王のもとに戻り、預言者エリヤの言葉を王に報告した。王はかんかんに怒り、50人の部隊をエリヤの所に派遣して、彼を逮捕しようとした。ところがエリヤは山の頂上に立って、兵隊たちの攻撃に抵抗し、天から火を呼び下して、彼らを焼き尽くした。そこで、アハズヤ王は再び50人の部隊を派遣したが結果は同じであった。3回目の50人部隊は今までの作戦を変えて、武力に訴えることなく、逆に丁重に王宮にお越し下さるように懇願したのでエリヤも彼らに従って王宮に出かけ、今度はアハズヤ王に直接「あなたは異教の神バアル・ゼブルに治癒祈願をしようとしたが、イスラエルに祈るべき神がいないと思っていいるのか」とハッキリ述べ、「それ故、あなたは登った寝台から降りることなく、必ず死ぬ」と宣言した。そして事実そのようになった。

4. サマリアの村での出来事
弟子たちにとってイエスはエリアの再来であり、エリアによってなされた神の業が、今ここで再現する。否、させなければならないと考えていたのであろう。その時の弟子たちの気持ちが次の物語によく現われている。エルサレムへの旅の最初の通過点がサマリヤの村であり、そこではイエスは歓迎されなかった。その理由はイエスが「エルサレムに向かっていた」からであるという。もちろんこの「理由」はルカが考えていることでサマリア人には関係のないことであった。ルカはこの表現においては弟子たちのイエスに対する「入れ込み」とサマリヤの村人たちとの意識のズレとを語っている。弟子たちにとって今のイエスは普段と違う。「エルサレムに向かっておられるのだぞー」という意識がある。しかしサマリヤの村人たちにとってはそんなことは少しも関係がない。彼らにとってはイエスは自分たちを差別する一人のユダヤ人にすぎない。歓迎しないのが当り前である。弟子たちはイエスを歓迎しないサマリア人を見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」などという。ここが問題。この言い方の中に、弟子たちのイエスに対する期待が込められている。これは明らかに預言者エリヤの出来事を反映している。
さてイエスは弟子たちの激しい提案を拒否する。拒否するというよりも、そういう姿勢そのものを「叱り」(55節は「戒め」ではなく「叱り」である)、イエスはサマリア人たちとの衝突を避けて、回り道をする。逃げると言ってもいいかもしれない。その時、イエスはどういう言葉で弟子たちを叱られたのかわからない。大事の前の小事として争いを避けられたのか。あるいは、弟子たちのエリア期待そのものを否定したのかわからない。逆に、イエスのそのような姿を見て弟子たちはどう考えたのだろうか。そのことについてもルカは何も語らない。ただ、それに代わる出来事として3人の弟子志願者を登場させている。

5. 弟子としての覚悟
本日のテキストの後半(57-62節)は、イエスと共にエルサレムに向かう弟子たちの覚悟が問われている。ルカ福音書では「弟子の条件に関する伝承」は3つある。
      (1)9:57-62
      (2)14:25-35
      (3)18:24-30
それらはすべてエルサレムへの旅行記の中にある。旅の初めと中頃と終わりとである。そしてそれらはいずれも「神の国」と関連づけられている。(2) と(3)についてはそれぞれ該当する主日で取り扱う。(2)は特定18、(3)は聖餐式では取り上げられていない。
本日のテキストでは「道を進んで行くと」(9:57)と状況が説明されている。主題は弟子志願の条件である。3人の志願者が登場する。初めの2人の弟子志願者との対話はマタイ8:18~22と共通しているのでおそらくQ資料に基づくものであろう。これに対してルカは3人目の弟子志願者との対話を加える。この3人目の志願者との対話(9:61~62)はエリアとエリシアとの対話(1king.19:19~20)をモデルにしてルカが創作したものであろう。エリアはエリシャに弟子になれと呼びかける。エリシャはエリアに言う。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」。それに対してエリヤは「行って来なさい」と言う。ここではイエスは「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」という弟子志願者に対して「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と答える。イエスのケースとエリアのケースとを単純に比較することは出来ないが、共通している点はエリシャの申し出は向後の悔いが残らないようにきっちりと別れてくるということであり、イエスの場合も後を振り返ることの禁止である。
これら3つの会話をとおしてイエスの弟子になるということの厳しさが語られる。特にその厳しさは、ただ苦労が多いという程度のことではなく、イエスへの一点集中の厳しさである。言い換えると、イエスに従うということはイエスの行動が理解できない場合でも、自分の方の価値観や生活習慣を切り捨てる厳しさである。ルカにとってイエスがキリストであるということが明らかにされるのは十字架以後のことであり、生前のイエスと弟子との関係においては弟子たちがイエスを正しく理解するかどうかということには関心はなく、弟子はただイエスに従うことが条件となる。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)という決意、父を葬るという人間としての最低の義務さえ捨てるということ、家族へのいとまごいという基本的な社会性までも無視することが要求される。
ルカはイエスの弟子である条件をサマリア村における弟子たちのエリア期待という出来事の後に、このエピソードを描き出すことによって、弟子たちが抱いているキリスト像を捨てることを語ろうとしているのではなかろうか。「あなた方は私があなた方が期待しているようなエリアであると思っているから私に従っているのか。もし、私に従いたいと思っているなら、そのような期待をまず捨てなければならない」というのが、ルカがここで描き出しているイエスのスタンスである。

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