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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/09/18~09/24

2016-09-26 10:04:32 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/09/18~09/24

016 日々の聖句 09月18日(日)
恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。(創世記15:1)

アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。(ヘブル6:15)

私の黙想:
「受ける報い」、褒賞、非常に大きい褒賞、要するに金賞に値する。ここまでのところで、アブラハムは金賞に値するようなどんな良い成績をあげたのだろうか。いろいろチェックしてみると、要するにヤハウェの命令に素直に従ったと言うことである。14章では先住民からの激しい攻撃を受けたが、彼らの連合軍に対して堂々と戦い、勝利した。その時、「サレムの王メルキセデク」が登場し、アブラハムを祝福したという。このメルキセデクは謎のままである。要するに、この地域の王たちと和平を結んだと言うことであろう。
その時、ヤハウェが幻の中に現れ「わたしはあなたの盾である」と宣言したという。ヤハウェの登場は遅すぎないだろうか。平和になってから出てきて、「盾」だと言ってもらってもしょうがないではないか。要するに、この戦いはヤハウェ抜きで戦って勝利したと言うことで、その褒賞かも知れない。
ここでのアブラハムの態度も、チョット冷たい。ヤハウェから非常に大きな褒賞を与えると言われたって、どうせ、その褒賞は無駄になるだろう。何故なら、私にはそれを受け継ぐ子孫がいない、と言う。この辺りのアブラハムとヤハウェとの駆け引きは面白い。ヤハウェはアブラハムの不平に対して、じゃ、その子孫を与えようではないか、と約束する。しかし、その約束が実現するまでかなりの期間があった。その間、アブラハムも待ちきれず、いろいろ人間的な手続きを取る。ここから新しいドラマが始まる。

016 日々の聖句 09月19日(月)
わたしの舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように。(詩35:28)

ハンナは、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。彼女は近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。(ルカ2:37~38)

私の黙想:
「〜〜〜を歌い、〜〜あなたを賛美しますように」では、詩として違和感がある。むしろ「正しさを語り、〜〜〜賛美しますように」ではないのか。と思って、口語訳を見ると、こうなっている。「わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう」。こちらの方は二つの文章を一つにして「語るでしょう」で結んでいる。ここには「歌う」も「賛美する」もない。同じ原文を読んで翻訳して、これだけ違うのは、元々の原文が違うのかと思ってしまう。成る程、フランシスコ会訳では「その時、わたしの舌はあなたの正義を語り、ひねもす、あなたの賛美を唱えます」。面白いですね。新改訳はもっと面白い。「私の舌はあなたの義とあなたの誉れを、日夜、口ずさむことでしょう」。「くちずさむ」なんて、実際の姿にかなり近い。いよいよ興味が湧いてきて、岩波訳を見ると「わが舌に口ずさませてください、あなたの義を、日毎にあなたの誉れを」となっている。要するに、元々の文章はこれだけの幅があるということでしょう。一つの翻訳だけを読んでいては分からない味わいがあります。しかし、御言葉を味わうとは、こういう風にして翻訳を並べて面白がっていることではないと、心の奥底で批判している言葉が聞こえてくる。私の舌は、あるいは私のパソコンは、日毎に何を語り、何を書いているのか。神の正しさを語っているか、心の底から神の栄光を賛美しているのか、反省させられる。

016 日々の聖句 09月20日(火)
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。(詩23:5)

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。(マルコ14:3,4,6)

私の黙想:
邦訳ローズンゲンでは、「苦しめる者」を口語訳に習って「敵」としている。口語訳では「宴をもうけ」のところを新共同訳では「食卓を整え」と訳している。まぁ、それらのことには触れないでおく。ただ一点、「前にしても」の「も」は何だろう。口語訳では、「前で」ある。この「も」によって、その食事の準備の異常性が強調されている。あるいは、異常な状況においても「いつものように」というニュアンスを示している。いずれにせよ、敵の前での食事、しかも宴会に近い食事の異常性が、この「も」によって強調されている。もちろん、この「も」がなくても、その文脈からこの食事の異常性は想像できる。その点で、岩波訳は面白い。「あなたはととのえる、わが前に食卓を、私を攻める者らの正面で」。ここには「も」はないが、語順を変えることによって、そのことの異常性が強調されている。岩波訳の面白さは、そのことの他に「わが前に」と「正面で」とが対比されていることである。これらをまとめて考えると、異常性と日常性とが奇妙に組み合わされている。神によって、異常な状況の中で日常性が守られている。
今の日本は確かに異常である。ややともすると、この異常さの中で圧倒され、自己を失いがちであるが、神はその中で「普段の通り」を保障される。

016 日々の聖句 09月21日(水)
わたしの霊がなえ果てているとき、わたしがどのような道に行こうとするか、あなたはご存じです。(詩142:4)

慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:3~4)

私の黙想:
この詩は「マスキール」つまり、教訓詩で、「ダビデが洞窟にいたときの祈り」と題されている。ダビデがサウル王に追われて洞窟に隠れていたときの祈り、という状況設定をした教訓詩であろう。おそらく、「敵の手にはまって獄に投じられた孤立無援になった人の唯一の頼みである神への叫び」(岩波訳の註)であろう。そういう状況になれば、誰でも心は「なえ果てる」であろうし、この後どんな苦難が待っているのか見当がつかない。神だけがご存じである、という。私は「ダビデが洞窟にいたとき」というよりも、ヨセフがエジプトで、ファラオの宮廷の役人で侍従長、ポティパルの奴隷であったとき、誤解されて、はめられて、投獄されたときの状況のに近いと思う(創世記39:11~23)。そこでもヨセフは誠実で監守からも信頼されたという。聖書は「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られた」という。新約聖書の方に目を移すと、パウロとシラスとが、やはりはめられて投獄されたとき、彼らはそこで「賛美の歌を歌って神に祈っていると、他の囚人たちはこれに聞き入っていた」(使徒16:16~34)、という。すると、突然地震がおこり、牢の扉が全部開き、足かせも外れてしまったという。それをみて監守は囚人が皆逃げてしまったと思い、責任をとって自殺しようとしたとき、パウロは「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだという。これも私たちにとって「教訓(マスキール)」になる。この伝統がアウシュビッツにおいても生きていた。

016 日々の聖句 09月22日(木)
(知りません。)わたしは弟の番人でしょうか。(創世記4:9)

めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:4)

私の黙想:
今日の聖句(?)、は聖句か。もちろん、聖書の言葉ではあるが、聖句と言えるか。例えば、色紙に書いて部屋に飾れるだろうか。今日の言葉は、アダムとエヴァの息子たち、カインとアベルの兄のカインの言葉である。カインは弟アベルに嫉妬して殺してしまった。人類最初の殺人である。まぁ、殺し殺されるのは原始社会の生存競争であり、その意味では理解可能な範囲である。それより前、アダムとエヴァとが禁断の実を食べたこと、それも、ありそうな罪である。彼らはそのことを除けば正直なものだ。その罪の半分は神の責任であると弁護士なら主張することも出来るかも知れない。しかし、カインの罪は弁解の余地がない。神から、弟のアベルはどこにいるかと訊ねられた時のカインの返事である。「わたしは弟の番人でしょうか」、これだけ取り出したら何のことか判らない。誰でも「そうだよ、あなたは弟の番人ではない」と言うであろう。ところが、この言葉にはその前の一言がある。「知りません」。これが決定的である。知らないどころか、カインがアベルを殺して埋めたのである。考えてみると、この言葉は人類は発した最初の「嘘」である。「嘘」という罪の、奥深さというか、知っていて「知らん」ということの犯罪性の深さは、底知れない。日本の諺に「嘘は泥棒の始まり」という言葉があるが、嘘は人間の罪の根源である。

016 日々の聖句 09月23日(金)
わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。(イザヤ48:18)

神の国は、(飲み食いではなく、)聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。(ロマ14:17~18)

私の黙想:
「平和が大河のように、恵みは海の波のように」。この表現は面白い。「大河のように」、何もかも呑み込み、滔々と流れる大河、一旦流れ始めたらもう誰も止めることが出来ない力強い流れ、平和という言葉との組み合わせが見事である。古代の詩人は、平和とはこういうものだという。
他方、「恵みは海の波のよう」、この言葉でどういう情景を思い浮かべるのだろうか。広い大海原か、荒れ狂う大波か。私は海辺の波をイメージする。寄せては返る、寄せるときの勢い、また返るときの潔さ。その繰り返しは、大昔も、今も変わらない。ただ絶え間なく寄せるのではない。引く力も見逃せない。古代の詩人は恵みとは海の波のようなものだという。
なんという力強い言葉であろう。

016 日々の聖句 09月24日(土)
あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。(申命記8:5)

わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。(2ペトロ3:18)

私の黙想:
親には子を訓練する責任がある。フランシスコ会訳では「自分の息子を鍛えるように」、文語訳ではもっとはっきりと「人のその子を懲戒(いましむる)ごとく」と訳している。こういう意味での親の責任は非常に軽くなっている。子供の方に問題があるというより、親の方に問題があるようだ。だいたい、今の親は、その成育プロセスにおいて、甘やかされ、まともに鍛えられていない。だから、鍛え方を知らない。80歳の私だってそうだ。
信仰の伝承、これも「懲戒(いましめ)」である。押し付けではない当然のこととしての自信が親の方にないのではないか。
今日の聖句は、ヤハウェによる「訓練」を心に留めよという。イスラエルの家庭ではことあるごとに「ヤハウェによる訓練」を語り伝えたのではないか。しかもそれを苦しみを通しての喜びとして。

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