ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

理想の終わり方

2009-01-11 21:07:36 | ときのまにまに
今日、礼拝の後の会食の席で、そんな話題は食事の席にはふさわしくないと思いつつ、あえて「皆さんは正直なところ、何歳まで生きたいのか、あるいはどういう死に方を理想とするのか」と聞いてみた。その際に、自分の考えを言わないのも無責任だと思い、「わたしはたとえ90歳とか95歳まで生かされたとしても、正直なところ、そんなに長く生きたいとは思わない」と発言した。
それはわたしの本音である。わたしの場合は、母は65歳の生涯を終え、父は96歳まで生きた。それはそれとして神によって定められた人生であるから、どうこう言うことはないが、正直なところ、母のような人生の方が願わしい。その二人の人生を見比べて、そう思う。正直なところ、わたし自身が65歳になったとき、「これでわたしも死んでいい」と思った。
人間の寿命は神が定めるものであるから、どんな人生の終わり方をしたとしても、文句をつける権利もないし、それはそれとして感謝し、受け入れなければならないと思う。昔、ペトロがイエスから「あなたはあなたの望んでいない人生の終わり方をする」と言われたとき、そばにいたヨハネを指さし、「彼はどうなるのか」と質問した。というのは、ヨハネは「死なない」という噂が流れていたからである。その時、イエスは「もしその噂通りだとしても、それはあなたには関係ないだろう」と答えられた、という(ヨハネ福音書21:23)。その通りである。でも、どういう人生の終わり方をしたいのかという願いぐらい考えても許されるだろうと思う。それによって、今後のわたしの祈り方が変わる。
わたしは、どんなに元気で、ボケていないとしてもな、90歳が限界であると思っている。もし、それ以上に長生きするとしたら、申し訳ないが「神を恨む」。もし、それ以上に長生きさせられるとしたら、その前に「徹底的にボケさせせて欲しい」。その意味でボケるということは、神の恵みである。
そんな話をしていたら、ある信徒は、自分がボケいる姿を妻にだけは見せたくない、と言っていた。これも、実に愛情深い言葉である。しかし、現実は、ボケてしまえば「勝ち」である。変な話「ボケるが勝ち」である。ボケたらそれ専門の施設に入れて、誰にも見られないようにして欲しい。それが、わたしの最期についての「現在の願望」である。その時になったら、全然違うことを言うかも知れない。その際はご容赦ください。以上「老人の戯言(たわごと)」でした。

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