ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

聖堂について考える(2)

2010-03-15 14:19:39 | 講演
聖堂について考える(2)
2010年3月13日(土) 再建中のサビエル旧聖堂にて
3. 聖堂の本質―――集まるところ
話を少し戻して、聖堂の第2の役割は「人々が集まる所」ということです。特にこの点で教会の始まりの頃のことを考えますと、人々が集まったということが教会の始まりであることがよく分かります。福音書によりますとイエスと弟子たちとはいわば「宿無し」の集団で、イエス自身も「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と語られました。ところが、イエスがいよいよエルサレムに入り、十字架に掛かるという直前に、イエスと弟子たちとは最後の食事をしました。それはどこか。非常に謎めいた形で弟子たちは集まりました。エルサレムの町は彼らにとっていわば旅先で、友人や知人はいなかったと思われます。イエスは弟子に命じます。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備しました(マタイ26:18,19)。このようにして最後の晩餐の会場は準備されました。この会話はいわば暗号だろうと思われます。つまり、弟子たちのその家のことを知らなかったことを示しています。マルコによる福音書では、その部屋のことを「二階の広間」と述べております。ここからこの「二階の広間」がいわば最初の教会で、伝統的には「アパルーム(上の部屋)」という言い方をします。おそらくここはイエスが弟子たちにも内緒で準備した秘密のアジトで、イエスが昇天した後、弟子たちが集まる場所になったものと想像されます。使徒言行録の1:15ではここに120人ほどの弟子たちが集まって祈っているときに聖霊を経験したといわれています。これが世界の歴史において「教会」というものが誕生したいきさつです。「120人」という数字はかなり象徴的な意味合いがあり、そんなに大勢いたとは思われませんが、ともかくここが最初の「集まる場所」であったことは間違いないと思われます。つまり、後に聖堂と言われるようになったキリスト教の礼拝の場所には「祭壇」はありませんでした。しかし、そこに弟子たちは集まった。この点はノートしておくべきポイントの一つであろうと思います。ただ、使徒言行録3章の出来事などを通して考えますと、当時のキリスト者たちはこのアパルームを拠点としてエルサレムの神殿に出入りし、礼拝を献げていたものと思われます。ところが、いろいろあってキリスト者たちはエルサレム神殿での礼拝から排除されることになり、彼ら独自の礼拝所をもつようになりますが、それも結局はユダヤ教のシナゴグに似たようなものであったと想像されます。当時のユダヤ教では神殿での礼拝とシナゴグでの礼拝とがあり、ユダヤ人社会の地方組織はシナゴグが中心で一種の公民館のようなものであったと思われます。現在でも世界に散らばるユダヤ人たちはシナゴグを中心に律法が学ばれ、「言葉による礼拝」が守られています。
それからかなり長い期間、キリスト者たちは始めはユダヤ人社会から、後にはローマ帝国による迫害の時代を迎え、キリスト者たちはカタコンベと呼ばれる地下の墓地で秘密の礼拝を続けることになり、聖堂どころではない期間を過ごします。しかし、この期間はその後のキリスト教にとって非常に重要な経験をします。犠牲を献げる祭壇もない、聖別された礼拝所もない経験は信仰を内面化させます。むしろ、この期間に、神殿の観念化(理念化)が進み、「集まる」ということの意味が深まり、本当の意味でのエクレーシア理解が形成されます。長い議論をはしおって結果だけを述べますと、2代目および3代目のキリスト者あたりから(つまりパウロの弟子筋に当たる人たちの代になって書かれたと思われるエフェソ書が成立した頃)信徒自身が「神の宮」であるという理解と信徒の交わりであるエクレーシアが「キリストの体」であるという主張とが成立します。しかし、この神学(理念)が成立した頃のキリスト教は迫害中で、いわばそれは「頭の中だけ」のものでしたが、313年キリスト教が公認され、今度は逆にローマ帝国の支援を得ることになります。迫害時代とは全く逆の状況ですが、ローマ帝国とキリスト教会とは、いわば「もちつもたれつ」の関係で、教会はこの世に対しても絶大な権力を持つに至ります。そのような状況において、今までは理念に過ぎなかった「教会論」が具体的な建築物となります。こうして成立したの聖堂です。
4. 公認後の聖堂
公認後、始めの頃は帝国内どこにでもあったバジリカと呼ばれる建物が礼拝に用いられたと言われています。バジリカとは裁判や公の集会用の長方形のホールであったと思われます。正面が一段高く、布告や判決の声が良く通るように工夫されており、礼拝用への転用は比較的簡単だったようです。ここから後の聖堂の形の変遷はわたしの守備範囲ではありませんので省略します。ただ、一点だけ触れておきますと、聖堂内の会衆席は「ネイブ」と呼ばれます。これはネイビー(海軍)と同じ語源で船の形を示しています。何時の頃が、教会は「ノアの箱船」であるという信仰が生まれ、それが形となったのが会衆席だというわけです。日本聖公会の古い祈祷書の聖洗式文には最初の「勧告」に続いて聖洗式の特祷がありました。その特祷の中にこういう祈りの言葉がありました。
「この僕を顧み、聖霊をもってこれを洗い、これを清め、これをして主の怒りをまぬかれ、キリストの公会なる箱船に入らしめたまえ。」ところが、現在では教会は「箱船」という思想は排他的だという理由であまり強調されなくなりました。
さて、以上に述べてきた二つの点、祭壇があるということ、言い換えると「祈りの家」であることともう一つは「集まる所」ということが聖堂の本質だと思います。その他にもあるかも知れませんが、一応、ここではその2点だけを述べて、次に本質的ではないが重要なことにも少し触れておきます。つまり、「退職した聖堂」にはないが「現職の聖堂」にある重要な役割です。わたしはこれを軽視するつもりはありません。むしろ聖堂というものを考える場合に、忘れてはならない点だと思っています。わたし自身も現職中に一つの聖堂を建築しましたが、その時二つのことを考えていました。一つは聖堂とは「永遠の建物ではない」ということ、その時、設計者に言っていたことは寿命は30年でいい。もう一つの点は、聖堂とは町のモニュメントになるような建物でなければならないということでした。簡単な話、遠くからでも見える十字架の塔は必ず必要であるということでした。要するに聖堂には聖堂としての社会的存在意義があるということです。それは聖堂の本質的なものとは少し離れていることでしょう。
5. 教会の管轄権
それは教会と教会の「管轄権(ジュリスディクションjurisdiction)」との関係です。この点についてはカトリック教会(聖公会を含む)とプロテスタント諸教会との大きな違いがあります。分かり易く言いますと、教区とか各個教会という教会の制度上の問題です。この点については、カトリック教会のことは詳しくは知りませんので聖公会のことを中心にお話しします。おそらくカトリック教会と聖公会との間では、用語法や細かい点について、とくに修道会との関係等についての違いがあるかも知れませんが、基本的には同じ理解をしていると思います。聖公会では各地に散らされている教会を「パリッシュ」あるいは「パリッシュ教会」という言い方をします。つまり、各教会には教会法上の管轄権、責任範囲(縄張り)があり、それをパリッシュと呼びます。
そのパリッシュを束ねて教区(ダイオシス)が成立し、教区を束ねるのが管区です。日本聖公会では一つの管区だけです。つまり、日本聖公会という組織が日本全体の管轄権を持ち、それが11に教区に分担されるという構成になっています。従って九州教区の場合でいいますと、例えば佐賀県に聖公会の教会はありませんが、佐賀県も九州教区のどこかの教会のパリッシュになっているわけで、牧師(パリッシュプリースト)がパリッシュ全体の管轄権を持っています。ただ、パリッシュの場合は「管轄権」とはいわず司牧権といういいます。従って、原理的には牧師はその教会に属している信徒だけが牧会の対象ではなく、パリッシュの住民すべてに牧会責任があるということになっています。しかし、それはあくまでも建前で現実的にはプロテスタント諸教会と同じように信徒に対する牧会が責任だと思っている牧師が結構います。
それに対してプロテスタント教会ではパリッシュのいう概念はありません。教会という組織は個人個人の集合体であり、地域に属していません。ついでに一寸触れときますと、聖公会では「牧師」という言い方と「司祭」という言い方とは厳密にいうと意味が異なります。厳密にいうと、パリッシュをもっている司祭が「牧師」です。その点でプロテスタント諸派においては非常に曖昧な言葉になっています。
さて、このことが聖堂という建物の建て方と在りように大きな影響をもっています。プロテスタント教会の場合は礼拝所はただ単なる集会所ですが、聖公会やカトリックの場合にはパリッシュ全体に対して、教区や管区レベルではその管轄権全体に対する存在感を示す必要があります。例えば、教区レベルでいうと教区がおかれている地域全体に対する司牧権は主教にあり、そのために主教座聖堂というものがあります。主教座聖堂はパリッシュの範囲を超えて管轄権を持ち、またその管轄権を示す必要があります。早い話が、主教座聖堂においては教区の信徒にだけ責任を持つのではなく管轄権を持っている全地域への責任を持ち、権威を示す必要があります。
日本聖公会にはまだ日本全体への管轄権を有する大聖堂はありませんが、もしそれがあるとしたら、日本全体に存在と権威とを示す機能を示すようなものがなければなりません。それはただ大きければいいというわけではなく、具体的にそれを示すものが必要です。聖堂あるいは大聖堂とはそういうものです。このことについてはいろいろと話さなければならないこともあるし、議論もあるかと思いますが、それは今日の課題ではありません。むしろ今日の課題はそのような「現職としての聖堂」から解放された聖堂の課題で、現職としての様々な「しがらみ」から解放された聖堂のあり方を問うことにあります。それは日本全国レベルで考えても非常にユニークな存在で、おそらくこのサビエル聖堂がほとんど唯一のものではないかと思っています。
締めくくり
退職しても聖職は聖職であるように、再建された聖堂も聖堂です。聖堂としての本質は失われません。わたしはそれを「祈りの家」と「集まる場所」という二つの点に求めます。
土田充義先生は『聖堂再建』の中で「聖堂はみんなのもの」という短い文章を寄せておられます。ある意味で、この短い文章が旧サビエル聖堂の再建へのモチーフです。この「みんなのもの」という言葉が意味する「みんな」とは誰を指しているのでしょうか。聖堂は上に見てきたとおり現職の時から「みんなのもの」ですが、そこには「管轄権」という名の支配構造が含まれています。しかし現職を退いた聖堂には支配という責任と機能から解放されています。その意味で、本当の「みんあのもの」ということが成り立つ可能性があります。
今、わたしたちの目の前で再建されつつあるこの聖堂は非常にユニークな存在です。おそらく全国的に見てもここだけだと思います。それだけに今後この聖堂がどういう在り方、どういう働き方をするのか模索していかなければなりません。徹底的にエキュメニカルな路線を進むのか、教区に属する通常のパリッシュ教会になるのか、修道院の一部になるのか。わたしには口を出す権利はありません。ただ、「どうするのかなぁ」、「どうなるのかなぁ」と余所事のように傍観するだけですが、たとえどうなったとしても、この聖堂は宗像の町に老後の居場所をえて過ごすことでしょう。
ご静聴を感謝します。

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2 コメント

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会堂、組織。 (さまよえる頭でっかち)
2010-03-23 15:28:48
会堂というもの意味が良くわかりました。会堂があれば それを維持していくために「組織」が生まれ、さらに階級が生まれる。其のうちに何のために という当初の目的が忘れられ 財産と組織の維持が目的化(世俗化)してしまう。「聖書に手をのせて祈ればよい」という考えの集団が生まれてくる理由のひとつでもあります。信者が減り 聖職者も少なくなっていくこれから どう変化していくのでしょうか。
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ありがとう (文屋善明)
2010-03-23 15:40:48
コメントありがとうございます。わたし自身も、これからどうなっていくのか興味深いところです。
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