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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/05/31~06/06

2015-06-06 16:11:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/05/31~06/06

2015日々の聖句 05月31日(日)
わたしの主なる神は、わが力。(ハバクク3:19)
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)
私の黙想:
預言者ハバククについてはほとんど何も情報がない。活動した背景はアッシリアが衰退し、新興バビロンが勢力を伸ばしている時代で国際的に不安定な時代であると考えられる。そのような不安定な国際状況において弱小国ユダはいかにして生き残れるか。ハバククは嘆く。「わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく」(16節a)。もう既にユダ王国の滅亡が目に見えている。そのような状況において、預言者は語る。この言葉にすべてのがかかっている。「わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に悩みの日の臨むのを静かに待とう」(16節b)。つまり、攻め込む外敵の自滅を「待つ」。つまり「不戦」のメッセージである。そして、一旦は破れても、最終的に生き残るのは、「わたしたちの主なる神」に寄り頼む者だという。負けて勝つ思想とでも言うべきか。敵に勝つための「わたしたちの力」は軍事力ではなく、「わたしたちの主なる神」である。これが、今日の聖句はそのメッセージである。

2015日々の聖句 06月01日(月)
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。(イザヤ55:7)
あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブ1:21)
私の黙想:
今日の聖句のキイワードは「主に立ち帰る」であるとするなら、この節の前半の「神に逆らう者はその道を離れ」をカットした意味が理解出来ない。親子関係であれ、夫婦関係であれ、神人関係であれ、正常な関係とは正面から向かい合う関係である。聖書的な言い方では「顔と顔と合わせる」ということである。従って正常な関係が破れるとき、あるいは正常な関係を拒否するとは相手に対して「背を向ける」ことである。
神が人間を創られたとき、「土の塵で人を造った」といわれているが、その段階では未だ人間の形をした土塊にすぎなかった。しかし、神が人間の鼻に神の息を吹き込まれたときに「生きた者」になったという。つまり、人間は神と顔と顔と合わせたときに人間になった。
「主に立ち帰る」とは神と正面から顔と顔と合わせることである。その反対が、「神に逆らう道を行く」ことに外ならない。
面白いことに、「神に逆らう者」という言い方は新共同訳だけで、口語訳その他の日本語訳ではそうはなっていない。「その道」という部分を「おのれの道」「自分の道」と訳している。これはなかなか考えさせられる。「自分の道」とは「神に逆らう道」なのだという意味であろうか。
旧約聖書でただ1回だけ(新共同訳による)「顔と顔と合わせた」という表現が用いられているは、例のイサクの息子とヤコブが父の家を脱走して砂漠を彷徨っているとき「顔と顔と合わせて神を見たのに、なお生きている」という。つまり、ヤコブは父親の家を出て「おのれの道」に進んでいるとき、神の方がヤコブを追い、ヤコブを捕らえ、「顔と顔と合わせた」というのである。

2015日々の聖句 06月02日(火)
モーセはヨシュアに言った。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している。」(民数記11:29)
愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。(1コリント14:1,3)
私の黙想:
荒野で放浪しているイスラエルの民の間に食糧のことで不満が出て来た。要するにマナに食べ飽きたのである。その不満は指導者モーセに向けられた。そういう状況でふたりの若者が宿営の中で「霊を受け」、「預言を語り始めた」。その事件を受けて、 「若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、『わが主モーセよ、やめさせてください』と言った」(28節)。今日の聖句はそれに対するモーセの言葉である。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか」という言葉が省略されているので事情がわからなくなっている。
正直に言って民数記にこういう記事があること、それに対するモーセの答えを知りませんでした。今日の聖句は非常に面白い。いわゆる「万人祭司主義」を思わせる言葉である。
昨日から全国の有名な神社仏閣等に油を撒くという事件の犯人が「キリスト教系の団体役人」だったという記事がマスコミ上で取り上げられている。キリスト者として実に悩ましい事件である。まさにヨシュアの悩みである。神から「霊を受け」何らかの行動を取るということは、危険である。このような行動に対する「歯止め」はどこにあるのだろうか。

2015日々の聖句 06月03日(水)
あなたは、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。(詩8:7)
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5:5)
私の黙想:
「神の手」と「人間の足」の組み合わせが面白い。神が創造されたものをすべて人間の支配下に置かれた。人間自身も「神の手」によって創造されたものであるが、他のすべての被造物に対して人間を神の側に属する者として「特権的な地位」を与えた。 「神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせた」(6節)。神の側における「僅かに」が人間側では「無限の距離」がある。神における「絶対」が人間においては「相対」であり、人間においては「絶対」はない。神における「絶対」とは創造者と被造物との距離であり、人間における「相対」とは人間と他のすべての被造物との差異である。
人間において理解不能なこと、「そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは」という疑問に対する答えは与えられていない。

2015日々の聖句 06月04日(木)
虐げる者から遠く離れよ、もはや恐れることはない。破壊する者から遠く離れよ、もはやそれがあなたに近づくことはない。(イザヤ54:14)
弟子たちは近寄って、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。(マタイ8:25~26)
私の黙想:
新共同訳ではこの章に「新しい祝福」、フランシスコ会訳では「エルサレムを思う神の変わらぬ愛」というタイトルを付けている。因みに米田豊先生は「夫なる神の愛。恢復せられし選民の祝福」。全体的なイメージはそういうものなのであろう。
今日の聖句は、「戦うこと」ではなく、「逃げること」を勧めている。とにかく「虐げる者」、「破壊する者」から「逃げよ」。後のことは全部、神さまに任せて逃げよ。敵の挑発に乗るな、逃げるが勝ちだ。そうすれば敵はあなたの目の前で自滅する。

2015日々の聖句 06月05日(金)
涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩42:2)
イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)
私の黙想:
詩編の中での、名文句中の名文句、詩の解説は不要であろう。ただ「涸れた谷」とは何かということだけ。「涸れた」という珍しい漢字が用いられている。口語訳でもフランシスコ会訳でも、新改訳でも「涸れた」という言葉はない。むしろ「谷川」、あるいは「谷川の流れ」である。(新共同訳では「川」とか「流れ」がない)。岩波訳では「谷」という言葉もなく「川床のほとり」と表現されている。日本語の「涸れる」とは水が干上がっているという状態を示す。つまり「涸れた谷」とは本来川があるべき谷底に水が涸れて「川がなくなっている」様である。つまり、この鹿は喉が渇き水を求めて谷底まで行ったのに、その谷の川は干上がり、川がない。そこに行けば何とかなると思って希望を持って厳しい坂を下ったのに、そこに水がない。もはや谷から上る元気もない鹿なのだ。可哀想な鹿、悲劇的な鹿、わたしの魂は今、そういう鹿みたいなものだ、という。
さて、どちらがこの詩42の冒頭の句として相応しいのか。

2015日々の聖句 06月06日(土)
施すべき相手に善行を拒むな、あなたの手にその力があるなら。(箴言3:27)
洗礼者ヨハネの言葉:下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。(ルカ3:11)
私の黙想:
口語訳ではこうなっている。「あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない」。フランシスコ会訳では「お前の手が善を行うことができる時に、困っている人に、それを拒むな」。同じ原文でも翻訳文によってこれだけ印象が変わる。新改訳では「困っている人に」を「求める者に」と訳している。これ以上の解説は不要であろう。
私の父の口癖のような言葉は「豊かさは、持っているものの量によって決まるのではなく、与える量によって決まる」。おそらく、これは貧乏なわが家の経済の言い訳だったのかも知れない。しかし確かに私の両親は何でも「与える人」だった。
福音書以外のところに残されているほとんど唯一のイエスの言葉は「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)で、これは使徒パウロがエフェソの長老たちへの告別説教の中で引用し、この言葉を思い出すようにと、「わたしはいつも身をもって示してきた」と言い遺している。

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