ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

浅野順一編『苦難の意義』

2009-02-23 15:04:37 | ときのまにまに
いよいよ今週より大斎節が始まります。今年は特別な気持ちで大斎節を迎えています。百年に一度の大不況、今のところわたしの私的な生活にはその影響はほとんど及んでいませんが、じわじわと迫ってくる予感はしています。首相は脳天気ににこにこ笑いながら「百年に一度の大不況」などと言っていますが、こちらは生活を脅かされる「百年に一度の苦難」(もっとも百年も生きないので、百年に一度の苦難という言い方は変ですが、少なくとも一生に2度目の苦難)が押し寄せてきている感じです。
先日、浅野順一先生編集の『苦難の意義』(昭和23年2月初版)をアマゾンの古書部で探してもらって手に入れました。本代は2000円に、消費税と送料で340円ほど、古本と言っても程度はよく、何か得をした感じです。その中に、北森嘉蔵先生の「苦難――教義学的一考察――」がありました。有名な「痛みの神学」を書かれた直後で、「日本のキリスト教のスポークスマン」が松村克己から北森嘉蔵へ移行したことを示すの記念碑的な論文集です。北森先生の論文もなかなか読み応えがあります。「苦難が真に苦難として圧力をもつのは、それが未解決としての性格を維持する時である」。これが冒頭の言葉です。すごい。それに続いて「苦難の固有性は『いかにしても割り切れぬ剰余』にある」と語られる。むかし北森フアンであった者としては、この言葉だけでゾクッとします。
この論文集の序文によるりますとこの書の企画そのものは太平洋戦争の末期頃に始まったようですが、着手は終戦後とのこと。おそらく本書の姉妹篇である『死の理解』が終戦間もない昭和21年5月に出版されていますから、それに続いて続編として企画されたものと思われます。序文は次の言葉で始まっています。日付は「昭和22年3月 復活節を間近く迎えんとして」とありますので、本当に出版されたのはそれから1年後で、出版まで随分時間がかかったようです。
「敗戦日本の直面するものは言うまでもなく苦難である。苦難は国民生活のあらゆる面を脅かし危うくしている。それは、政治、経済の面のみならず道徳、思想の面においてもまた同様である。しかし日本人はこの苦難より一刻も早く逃れ出でんとして焦っているが、苦難の意義を深く探りそこに自己のありのままの姿を真実に見、自己の新しき出発を真剣に求めんとしているであろうか。そのことなくして苦難より逃れ、力強く再起する真の道はないと信ずる」。
この序文で示されているますように、執筆者たちの苦難についての共通理解はここにあったものと思われます。つまりこの論文集での苦難は「迫害の中での苦難」とか一般的な生活苦というよりも、新しい時代を切り開く契機としての苦難という理解が背後にあったようの思われます。そこにキリストの苦難の意義を見いだしていこうという感じがいたします。余談になりますが、昨日のテレビ番組でも百年に一度という経済危機の中で太平洋戦争後の50年余の「経済発展?」が再検討されていました。確かにその経済発展は世界の驚異であったことも事実でしょう。アメリカ漬けの中で日本人が失ったものも決して少なくはありません。特に最後の7年間小泉・竹中構造改革によって「総仕上げされ」、それまで日本社会を支えてきた共同体意識やモラルなどが完全に失われてしまったのではないか、と問われ始めています。
考えてみますと、果たして日本人はあの敗戦を「苦難」として受け止めていたのだろうか。むしろ「苦難からの解放」としていたのではなかろうか。特にキリスト教界はアメリカ文化の急激な流入とアメリカ式宣教活動によってかつてない盛況を示し「苦難」ということから最も遠くにいたのがキリスト教界であったような気がします。その中でこの論文集が出版されたということを思うと涙が出そうになります。キリスト教界を含めて、日本人はこの論文集『苦難の意義』が提起していた問題を真剣に取り上げていなかったことのツケが今頃出てきたような気がします。その意味ではもう一度ここから始め直さなければならないのかも知れません。この論文集のもう一つの重要な意義はここに中村元先生の「インドの哲学思想における苦の意義」という論文が寄せられていることです。ここら当たりに当時のキリスト教思想家たちの見識が感じられます。

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