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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/10/09~10/15

2016-10-15 08:04:45 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/10/09~10/15

016 日々の聖句 10月09日(日)
主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう。」(民数記14:20)

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロサイ3:13)

私の黙想:
日本語ローズンゲンでは「言葉」の後ろに括弧付きで(懇願)という解説が入っているが、これは不要であろう。というより、これはみ言葉に対するルール違反である。誰もこの「言葉」を「懇願」に限定できない。むしろ「言葉のゆえに」を口語訳では「言葉どおりに」、フランシスコ会訳では「願いどおりに」となっており、こちらの方の解釈の方が重要であろう。「言葉のゆえに」なのか「言葉どおり」なのか。門叶さんはこのことについて、「言葉のゆえに」の「ゆえに」には条件的なニュアンスが含まれており、「祈り」は「赦し」の「条件」はないよね、とコメントしておられるが、その通りであろう。私は「言葉どおり」にさえ「赦し」の限定句になって、」相応しくないと思っている。「わたしの言葉どおり」だと、「私の自覚内の赦し」になってしまう。神の赦しは「私の想定以上の出来事」であり、むしろ「赦されて」、私の罪の大きさを自覚するという構造である。神の赦しの前では「わたしの言葉」などほとんど無意味に等しい。ただ、神の前にうなだれて立ち、あるいは膝まずき、言葉にならない言葉でうめく。神はその私の態度を見て赦してくださる。私が無自覚で犯している罪も赦されているということに驚きと賛美がある。
今日の主日、教会に集う皆さま方が「驚きと感謝」の讃美がなされますように。

016 日々の聖句 10月10日(月)
主は正しくいまし、恵みの業を愛される。(御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる)。(詩11:7)

光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。(エフェソ5:8~9)

私の黙想:
今日の聖句、残念!これだけでは、前半の言葉と後半の言葉とがアンバランスである。新共同訳のせっかくの名訳「心のまっすぐな人」が、カットされているのは残念であるが、ドイツ語版がそうなっているのなら、それも仕方がないが、そのために、新共同訳の大欠陥が露骨に明らかになる。ヘブル語原文では「ツァディック(正しい)」という言葉が、繰り返され、それがこの句の命になっている。このツァディックを、異なる訳語にしてしまったら死んでしまう。口語訳では、正しく「主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである」と訳している。もし、新共同訳がツァディックを「恵み」と訳したいのなら、主は恵み深く、恵みの業を愛される」なら、まだましだ。
主の本質としての「正しさ」が、「正しい行為」として現れるというのが、今日の聖句のポイントである。この同語反復、同様に主の本質は「愛」であるから、「愛する」。主は反悪であるから、悪を憎む、等々。人間が神について語る場合に、本質と属性との一致という形でしか表現できない。古い神学では「神の属性(attribute)」ということで、「永遠性」とか、「普遍性」等が論じられたものであるが、現代神学ではあまり取り上げられない。神においては「属性」は本質である。

016 日々の聖句 10月11日(火)
わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主がわたしたちに賜ったすべてのことを。(イザヤ63:7)

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。(1ペトロ2:3)

私の黙想:
今日の聖句、主語は「わたし」で「主の慈しみ」以下すべてが目的格で、動詞は「心に留める」。「心に留める」という動詞が光っている。非常に分かりやすい。聖書の言葉って「分かりやすい」時は要注意だ。ということで、口語訳をチラッと見る。「わたしは主がわれわれになされたすべてのことによって、主のいつくしみと、主の誉とを語り告げ」、たぶんこの部分が対応するのであろう。やはり、かなり違う。それも面白いほど違う。その違いは一目瞭然、誰にでも分かるであろう。どちらが正しいか、ということについては、私は判定できない。第1、動詞が全然違う。ということで、フランシスコ会訳も覗く。これは面白い。「主の慈しみの業を、わたしは数え上げる。主がわたしたちに賜ったすべての業、また、その憐れみとその豊かな恵みのゆえに、わたしは主を讃美する」。成る程「数え上げれば」「心に留める」ことになる。また、口語訳や文語訳のように、数え上げ、心に留めたことを、人間は「語り」たくなる。これまた、同じ原文の(?)、翻訳と思えないほどだ。原文に最も近いという評判の新改訳もまた違う。(引用は省略する)。まぁ、礼儀として、文語訳も読む。かなりゴタゴタして分かりにくい。このわかりにくさ、いかにも「聖書的」だ。だから、言ったでしょう。「聖書の言葉って『分かりやすい』時は要注意だ」と。このようにいろいろな翻訳を読み比べながら、私は「主が恵み深い方だということを味わう」(今日の新約聖書の聖句)のが、私の味わい方だ。

016 日々の聖句 10月12日(水)
見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。(彼らは漁師だった。)イエスは、「わたしについて来なさい。(人間をとる漁師にしよう)」と言われた。(マルコ1:16~17)

私の黙想:
「自分の群れ」を探しだし、彼らの世話をする」。「主の群れ」としては実に有難いお言葉、これを聞いたら、主の民は大喜びするだろう。その時、「主の民」は主から離れていた。主から離れた主の民には「世話をする者がいない」。主なき民として、孤独の中を生きる。自主的に、自分たちで考え、昔のことを思い起こし、将来のことを考える。実は、これはかけがえのない貴重な時であり、経験であったに違いない。彼らを支えた唯一の力は「主の約束」である。その意味で、エゼキエルの預言はイザヤやエレミヤと比べると、実に分かりやすい。
昨日手にした岩波訳をおそるおそる開く。えっ、ここには「彼らを世話をする」という言葉がない。口語訳の開いたが、そこにもない。フランシスコ会訳にもない。新改訳にはあった。文語訳では「これを守らん」とある。おそらく、原本(写本)の違いだろう。そこで、考える。この状況の中で、「世話をする」という言葉の有る無しについて。捕囚中の民にとって、「探し出してくれれば」それで十分。その後、世話をしてくれるか、どうかはそれほど問題か。ここで、北朝鮮への拉致被害者のことを思う。ともかく、「発見され」「帰国できる」ことが重要で、たとえその後、帰国できないとしても「日本国民」として認められれば、事情によっては北朝鮮での生活を続けることも考えられるのか。それほど、彼らは北朝鮮での生活や人間関係(そこでの家族)に馴染んでしまっているのではないだろうか。もちろん、それは私たちが考えることではなく、彼ら自身の判断であろう。しかし、絶対なことは「探し出されること」であることは間違いない。イスラエルの民のバビロン捕囚においてはクロス王の宣言により、解放され祖国への帰還が認められたが、実際に帰国したのは3分の1程度であったと聞く。この辺の事情が「彼らの世話をする」という一言の有る無し重要なカギではなかろうか。

016 日々の聖句 10月13日(木)
わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。(イザヤ42:8)

たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(1コリント8:5~6)

私の黙想:
面倒な手続きを抜きに、「わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」という部分、口語訳では「わが誉を刻んだ像に与えない」となっている。「わが誉を刻んだ像」、面白い表現だ。文語訳では「わが誉れを偶像にあたえざるなり」。フランシスコ会訳も新共同訳と同じである。新改訳では「私の栄誉を刻んだ像どもに与えはしない」。問題は「わが誉れを」を何処にかけるか。「刻んだ」にかけるか「与えない」にかけるか。あるいは「刻んだ像」としてそれを偶像と訳すか。岩波訳では「与えない」の前に「わたしは」という主語を補って、文意を明確にしている。そうすると、「わたしは栄光をほかの神に渡さず」という文章の反復となる。口語訳が「わが誉を刻んだ像」というように続けるために起こった虚しい黙想だ。
それはそうとして、イザヤ書の文脈から離れて、なぜ、私は「わが誉を刻んだ像」という言葉に面白さを感じたのか。「偶像礼拝」ということの抽象的な意味。人間は何でも「偶像化する」。「主の誉れ」だって偶像化する。「主の苦しみ」だって偶像化する。主を信じ、主を誉め讃えつつ、偶像に栄誉を与えているのではないだろうか。

016 日々の聖句 10月14日(金)
わが民は生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。(エレミヤ2:13)

女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」(ヨハネ4:11)

私の黙想:
神さまには申し訳ないが、今日の聖句を読んで、パッと思ったことは、神さまのことではなくて、原子力発電所のことだ。馬鹿な人間たちは、豊富な自然エネルギーを捨てて、危険で、蓄えることできず、コントロールすることさえできない原発を作りだして、それを「基本的電源」だと言う。もう、これ以上考えることも、言うこともない。

016 日々の聖句 10月15日(土)
(反逆の家よ、)お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する、と主なる神は言われる。(エゼキエル12:25)

ペトロの手紙:わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。(2ペトロ1:16)

私の黙想:
捕囚中のイスラエルの民に対するヤハウェの約束。人びとは「解放の時」があまりにも遅いので、「日々は虚しく過ぎ去り、幻も消えてしまう」(22節)と嘆く。ヤハウェはこれを聞き、怒る。そして、この諺を二度と言わせない。だから、「幻の日は一日一日近づいている」と言え、とヤハウェは言う。24節の言葉は実に強い。「もはや、イスラエルの家には、むなしい幻はひとつもない。気休めの占いもない」。恐らく捕囚の民は、いつヤハウェが解放してくれるのかと、それこそ「占い」をしていたのであろう。この「占い」には、私も思い出がある。それこそ北朝鮮の平壌の収容所に入れられた時、米ソの交渉により、それ軍によって収容された私たちは「一日一日」解放の時を待っていた。そのときに収容所内で、深夜大人たちがゴソゴソ集まって「コックリさん」をしていた。その真剣な様子、何か恐ろしい妖気が漂っていた。バビロンに囚われていたイスラエルの人びとの間でも「占い」が流行ったのであろう。人間のやることはどこでも同じである。もうそういう「占い」はなくなる、とヤハウェは言う。25節の前半は、「なぜなら、主なるわたしが告げる言葉を告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはない」。25節後半に入る前の「反逆の家よ」という言葉は強い。もちろん、ここでの「反逆の家」とはイスラエルの民を指す。ヤハウェから「反逆の家よ」と呼ばれた時、彼らは背筋をピーンと伸ばしたことであろう。イエスがペトロに「サタンよ」(マタイ16:23)、と罵倒された場面を思い起こす。ヤハウェは「反逆の家よ」と罵倒しつつ、解放の時が近いことを宣言される。それが今日の聖句である。

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