ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/10/02~10/08

2016-10-15 07:58:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/10/02~10/08

016 日々の聖句 10月02日(日)
地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。(詩98:3)

イエスの言葉:ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。(マルコ4:21)

私の黙想:
ここでの「神の救い」とはイスラエルの民の救いである。全世界の国々が、イスラエルの国の救いを見たという。当然その場合は、外国支配からの救いを意味するのであろう。
ところが口語訳ではこの句、「われらの神の勝利」と訳されている。二つ並べると、当然意味している内容は異なる。「神の勝利」という場合の相手は誰か。神は誰に勝利したのか。神の勝利という場合、どこか具体「敵国」を想定できない。全世界への勝利、もっと抽象化して「悪の力」に対する勝利であろう。口語訳以外はすべて「神の救い」と訳している。岩波訳によると、この句はイザヤ書52:10後半と同じだと注釈している。口語訳でもイザヤ書の方は「神の救い」と訳されている。原文を見ると「イエシュアット」、「ヨシュア」とか「イエス」の語根と同じ言葉が使われている。ヨシュアの場合は「勝利」に近いしイエスの場合には「救い」に近い。だから、どちらがどうとも言えないが、イスラエルの救いが神の勝利の徴だと読めないこともない。神とのイスラエルとの因縁深い関係において、最終的にはイスラエルを救済することによって、全世界への神の勝利を見せつける。

016 日々の聖句 10月03日(月)
あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。(詩55:23)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

私の黙想:
足元がふらつく、という経験。恐らく、全ての人間は幼児時代に経験しているはずだし、幼児を見ているとそういう場面をよく見かける。幼児はよく転ぶ。転んでもすぐに立ち上がっている。幼児は転んでも怪我をしないらしい。身体がそういう風にできているのだろう。だから転ぶことに用心しない。子供は転んで成長する。しかし、高齢者になるとそうはいかない。足元がふらついて転んだら、そのまま立ち上がれなくなるかも知れないという「恐怖」を抱えて歩いている。重荷なんか持てるはずがない。旅行する場合にも「持てる範囲」が制限になる。近頃は便利な物ができて、4輪の手押しグルあのようなトランクがある。これはなかなか便利だ。荷物をぶら下げる必要がないだけは、それ自体が「杖代わり」になる。そうなると歩行道路の構造が問題になる。駅などでは、盲人用の黄色いボタンが妨げになる。しかし、これは文句は言えない。これを必要とする人がいる以上、文句を言ったら罰が当たる。恐らく高齢者がゴロゴロ、モタモタ、歩いていること自体が、多くの人の邪魔になっているのだろうと思う。現代社会はお互いに少しずつ不便さを我慢しながら、お互いのことを配慮して生きなければならないのであろう。

016 日々の聖句 10月04日(火)
深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。(詩95:4)

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。(使徒17:24)

私の黙想:
この詩は聖公会の祈祷書で毎朝の祈りの時に唱えられる。毎朝唱えるために、かえって一句一句を味わって読むということが為されない。ほとんど無意識のうちに唱えている。「地の深みは主の御手に、山の頂もまた主のもの」。ここでいう「深い地の底」は決して、地獄とか「陰府」ではない。崖っぷちから見た「谷底」であろう。同じく「山の頂」もそこから見た高い山の頂上であろう。あそこにも神が居られるのだ、という実感がこもっている。毎朝の祈りにおいては、この「実感」が大切である。
ところで、詩人はこの詩を何処で詠んでいるのだろうか。山中とも考えられるし、海辺かも知れない。いや、恐らく豪壮な神殿の中で唱えているのであろう。その意味では、深い谷底も、高い山の頂も、広大な海も、すべて実感から遠い。むしろ、8節以下の部分を読むと、ここで詩人は遠い先祖のことを思い起こしている。とくに「先祖の罪」を思い返し、私たちはそうなっていないかどうか、反省し、「今日こそ」という。

016 日々の聖句 10月05日(水)
兄弟、(息子、娘、愛する)妻、(あるいは)親友に、「あなたも(先祖も知らなかった)他の神々に(従い、これに)仕え(ようでは)ないか」と(ひそかに)誘われても、あなたは同調してはならない。(申命記13:7,9)

(兄弟たち、)万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、(“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を)柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。(ガラテヤ6:1 )

私の黙想:
日々の聖句では括弧内が省かれている。他のところはともかくとして「息子、娘」、あるいは「ひそかに」が省略されているのは問題だろう。兄弟も妻も親友も同世代の人間であるから、同時代の歴史を経験している。だから、彼らの「ひそかな誘い」も拒否できるし、逆に彼らを戒めることもできる。しかし、息子、娘は次世代の人間で経験を共有していない。だから新しい土地で、新しい習慣を獲得し、新しい神を知ることが出来る。もし、彼らがその「新しさ」を導入しなければ、社会は停滞するであろう。だから、時には彼らの主張に耳を傾けなければならない時もある。
日本にキリスト教が伝わったとき、この申命記の言葉が「神の言葉」として伝えられたら、キリスト教は日本社会に入ってこなかったであろう。当然、若い世代が新しことを主張するとき、旧世代に対する批判が含まれている。ここに「論争」が起こるのは当然で、旧世代の人間は堂々と自分たちが経験してきたことを主張したらいい。
イエスの言っているではないか。「わたしが来たのは、地上に火を投じるためであった。今から後、 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」(ルカ12:49~53)。明らかにイエスはこの申命記の言葉を意識して語っている(と思う)。

016 日々の聖句 10月06日(木)
人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。(箴言21:2)

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(1コリント6:12)

私の黙想:
今日の聖句、いかにも箴言らしい。哲学的だ。「人間の道は自分の目に正しく見える」、いかにも断定的だ。人間にだって、いろいろ居り、自分自身を正当化する人間もいるだろうし、自分自身に自信を持てない人間もいるだろう。しかし、全ての人間は生きている。生きている以上、どこかで「自己肯定」している。その点を突き詰めたら、この言葉を否定できない。後半の「主は心の中を測られる」は厳しい。誰もこの言葉を否定できないであろう。どこかで自己を越えた視点から私自身の内面を見ている。誰も、その視点の前に「自己肯定的」に立てない。人間が初めて自分の姿を意識したとき、「(あなたは)どこにいるのか」(創世記3:9)という声を聞いたとき、思わず「隠れた」。これが人間である。

016 日々の聖句 10月07日(金)
その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。(士師記2:10)

シメオンの祈り:これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。(ルカ2:31~32)

私の黙想:
今日の聖句、これを書いている人はどういう気持ちで書いているのだろうか。この句に続く言葉がそれを示している。
「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」。著者は嘆きながらこれを書いているのだ。こうなるから、「歴史」が大事なのだ。歴史を知らないと無軌道になる。歴史は単なる過去の出来事ではない。現在が立っている足元である。過去があって現在がある。過去は現在を規定している。過去の良いこと、悪いこと全てが現在の「われわれ」を形成し、方向付けをしている。過去をただ単に美化するだけが「歴史」ではない。イスラエルだって、過去において良いことばかりではなかった。過去においてもバアルの神に走り、他の神々に仕えたこともある。その時の反省も「歴史」である。その意味で、過去の良い点、悪い点を見分けるのは現在の知性である。人間は過去に学ばなければならない。

016 日々の聖句 10月08日(土)
御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。(詩119:130)

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(ロマ15:4)

私の黙想:
この「理解」は御言葉に対する理解だけではなく、生きるために必要な知識への理解を示すと読みたいし、私の場合はそうである。その意味では、聖書のことばは人生に必要な事柄へのtranslation機能を果たしてくれている。「無知な者」を口語訳は「無学な者」、フランシスコ会訳では「純朴な者」、新改訳は「わきまえのない者」、岩波訳では「未熟な者」と訳している。まぁ、これについてはどう訳そうと私自身のことだから全部当てはまると言っておこう。それよりも、やはり文語訳の「聖言(みことば)うち披(ひら)くれば光を放ちて、愚かなる者を慧(さと)からしむ」がピンとくる。ここでの強調点は「うち披くれば」で、こちらが無理に「こじ開ける」のではない。向こう側から開いてくるのである。その点ではフランシスコ会訳の「「言葉は現れて光を与え」や、「戸が開くと、光が差し込み」や、口語訳の「み言葉が開けると光を放って」も言葉足らずの感がする。岩波訳では「ことばの戸が輝き」と訳している。この言葉からイメージすると、結婚披露宴などで新郎新婦が登場する前に扉に照明が当てられ輝くと同時に向こうから扉が開かれ、そこに新郎新婦が立っている光景を思い起こす。その意味では、御言葉の扉に光を当てるのはこちら側である。そして向こう側から扉が開けられ、さらに強い光が輝く。文語訳の「うち披くれば」という言葉にはそうのような響きが感じられる。

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