ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/06/12~06/18

2016-06-19 06:38:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/06/12~06/18

2016 日々の聖句 06月12日(日)
御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。(ps.143:10)

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。(col.2:6~7)

私の黙想:
祈りが「願い」の形だとすると、今日の聖句はその究極の願いである。とくに、「御旨を行うすべを教えてください」という一句に全ての願望は収斂される。この「御旨を行うすべ」の「すべ」はユニークである。口語訳では「みむねを行うこと」、フランシスコ会訳では「み旨を行う道」、新改訳は「みこころを行うこと」と訳している。岩波訳は面白い「あなたの意志を行うこと」。こうして並べて見ると新共同訳の「すべ」ということ、漢字で書くと「術」はあまりにもリアルである。そんなことは「術」ではないだろうと反撥したくなる。何しろ柔術を柔道に書き換えた民族なんだから。
他の訳はすべて結局は「御心が行われますように」という言葉にまとめられるであろうが、ここに「術」が加わることによって、御旨の実現のために「私の参加」がかなり強く意識される。「いざ鎌倉」というときに、何の武器の準備がない武士は役に立たない。どんなに貧乏しても武士は武器を普段から大切に磨いている。なぜなら、それが「参加」への意志だからである。新共同訳の訳者がそこまで考えて「すべ」という言葉を挿入したのかどうか、分からないが、私はそう思う。

2016 日々の聖句 06月13日(月)
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。(isa.58:11)

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(jh.4:14)

私の黙想:
「潤された園、涸れない泉」はそれ自体としてはただそれだけのこと。しかし、そこに住む者、その泉を頼りにして生きる者にとっては「かけがえのない宝」である。今日の聖句は、ヤハウェはあなたをそのような者にすると語る。そのために重要なことは、その前の言葉である。「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる」。
この58章を読むと面白い。これが「神に従う道」かとおもわされる。先ず、冒頭の言葉に驚かされる。 「喉をからして叫べ、黙すな声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きをヤコブの家に、その罪を告げよ」。まさに政治的発言である。神に従う者は社会的に悪に黙っていてはならない。修業としての「断食」はこてんぱんに批判される(3~5)。そして、本当の断食とは、これだ(6~8)。9節から11節までは自分で読んで欲しい。聖書をお持ちでない方のために、引用しておく。
「あなたが呼べば、主は答え、あなたが叫べば「わたしはここにいる」と言われる。
軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、
飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、
あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」。
そして、あなたの評判は、
「城壁の破れを直す者」、
「道を直して、人を再び住まわせる者」となる。
私たちも、ぜひ、こういう者になりたい。

2016 日々の聖句 06月14日(火)
あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らってくださる。(ps.37:5)

キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(rom.5:2)

私の黙想:
今日の聖句、このまま読むと自分の人生に対して無責任なように響く。この句は3節との組み合わせによって読むべきである。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ」。これが3節。3節では信仰と倫理とが一体化され「現在」の生き方が述べられている。5節では、その同じ信頼が将来に向けられている。新共同訳では「主は計らってくださる」となっているが、口語訳では「主はそれをなしとげてくださる」で、成就が述べられている。フランシスコ会訳ではさらに強く、「行く末を主に委ね、主に寄り頼め。主自ら成し遂げてくださる」と訳されている。私たちは将来のことを「行えない」。私たちは将来のことについて責任を持てない。将来のことは「倫理」の枠外である。その意味では、将来のことは「知っちゃことない」。息子や娘の将来も、孫の将来も、私にはどうにもならない。ただ、「主に任せる」外はない。

2016 日々の聖句 06月15日(水)
主がわたしの口に授けること、わたしはそれだけを忠実に告げるのです。(num.23:12)

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。(act.4:20)

私の黙想:
バラムとバラクとの会話。どっちがどっちか、わからなくなる有名な聖書の個所。バラクはモアブの王で、バラムはメソポタミヤの占い師。モアブはイスラエルの宿敵(ex.15:15)。面白いことに、この占い師バラムはヤハウェを信じている。パレスチナに侵入したイスラエルを待ち受けていた強国がモアブである。モアブの王はそれまでのイスラエルの戦績を知り、イスラエルの侵入を怖れていた。それでモアブの王バラクはイスラエルを呪わせるために、諸国のリーダーたちを集めて、礼物を携えて占い師バラムの元に遣わす。占い師バラムは使者たちを自分の元に泊まらせて、神の託宣を聞く。神はバラムにイスラエルを呪うためにバラク王の元に行ってはならないと告げる。バラク王の使者たちは仕方なしに手ぶらで帰国する。それを聞くとバラク王は前回よりさらに多くの礼物を持たせてバラムの元に使者を使わす。第2日目の使者たちも自宅に泊まらせて神の託宣を聞く。やっと、神からモアブの王バラクの元に出かけることを許可され、ろばに乗って出かける。それを見た神は怒り、ろばが動かないようにされる。占い師バラムはろばを鞭打ち何とか進ませようとする。その道中のエピソードは聖書(民数記22章)を読んで頂くとして、23章ではバラク王の前に立った占い師バラムは王に7つの立派な祭壇を築かせ、王を祭壇の横に待たせて、バラムは神の言葉を聞く、ところから始まる。結局、神の託宣はイスラエルを呪うどころかイスラエルを祝福するという。それを聞くとバラク王は烈火のごとくに怒る。今日の聖句はその時の占い師バラムがモアブの王バラクに告げた言葉である。
この面白い物語、いろいろなことを考えさせられる。トーラー(律法の書)にこういう物語もあるのだということは愉快である。聖書自体はそれ程ごちごちの偶像礼拝否定でもなさそうである。

2016 日々の聖句 06月16日(木)
主は知っておられる、人間の計らいを、それがいかに空しいかを。(ps94:11)

自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(rom.12:16)

私の黙想:
人間の計らいがいかに空しいか、それは人間自身も知っている。全世界を上げての大祭典、オリンピック、世界各国の代表者が集まって、開催地を決定し、膨大な予算を使って、緻密な準備をするオリンピックさえ、いかに空しいことだろう。と、そこまで読んで口語訳を見ると「主は人の思いの、むなしいことを知られる」とある。何と「人間の計らい」がない。ただ、「人間の思い」だけである。そこには「計画性」がない。ただ「思っていること」で、それならその空しさを知っているのは「主」である前に「思っている」本人自身であろう。8節から11節までの一塊として読むとき、この「思い」ということの位置づけが明瞭になる。人間はバカだという。耳を創造したものに耳がない筈がないではないか。人間に目を作った者が見えないはずがないではないか。人間の世界に裁判があるなら、神が人を裁き、罰を与えないということはない筈がない。これらのアナロジーにおいて、人間に「思い」がある以上、神にも「思い」がある。人間の世界における「聞く」「見る」「裁く」が不完全なように、人間の「思い」も不完全である。こういう文脈に今日の聖句が置かれている。

2016 日々の聖句 06月17日(金)
夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと主は言われる。(jer.23:28)

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。(1jh.4:1)

私の黙想:
「夢」と「預言」との対比。「偽物と本物と」、偽物は本物以上に偽物らしい。今日の聖句はその対比を「籾殻と穀物」を例に、比べものにならないという。外観だけ見たら区別がつかないが、脱穀すれば表皮と実との違いは明白になる。口語訳ではこの部分を「わらと麦」と訳している。これでは似ている点が全くない。つまり「比べようがない」。この部分、比べようがないということをいっているのであるから「比べようがない」ならいいではないかと思うが、そうではないだろう。類似点があるのに、本質が違うという点が重要である。フランシスコ会訳でも新改訳でも「藁と麦」と訳している。文語訳では「糠と麦」。新共同訳のユニークさが面白い。
どこかの団体で「5年後の夢を語る」というプロジェクトがなされた。その組織の5年後を予想したら、その高齢化の故に「夢」どころか「存在そのもの」が怪しい。むしろ重要なことは、5年後の状況を予想して、今からその備えをすることではないだろうか。ある会員が「夢」でいいなら、私はこれから「宝くじ」を買って、2億円当たったら、それで魅力的な聖堂を建てる、という。「夢を語る」ことの空しさである。預言者(エレミヤ)は絶体に「夢」を語らない。

2016 日々の聖句 06月18日(土)
わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。(jer.33:9)

キリストは、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるためです。(rom.15:8~9)

私の黙想:
新約聖書の聖句の方、肝心の真ん中の部分をカットしてしまって、ほとんど意味のない言葉にしてしまっている。まぁ、そのことはここでは論じない。
今日の聖句、要するに神がエルサレムの町に特別な恵みをもたらす。そのことを全世界が知ったとき私の誉れは高まるが、逆に全世界は怖れる、ということを述べている。ここでの中心的なメッセイー字は、神の栄光(喜び)は世界の恐怖となる、ということが述べられている。
キリスト者なら、それがイエスの十字架において起こったことだと、すぐに結び付けるであろう。しかし、ここで述べられていることは、エルサレムの繁栄が世界の恐怖になるということで、歴史的出来事としてはイエスの十字架に続いた出来事はエルサレムの滅亡であり、ローマの繁栄であった。さらに歴史の出来事を考えると、20世紀におけるエルサレムの回復(繁栄)は現在世界の恐怖の原因となっている。こちらの方が、エレミヤの預言に近い。

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