ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 05/12~05/18

2013-05-20 05:48:46 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 05/12~05/18

日々の聖句2013 05月12日(日)
背いた者のために執り成しをしたのはこの人(主の僕)であった。(イザ53:12)
人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕(ルカ23:33-34)
私の黙想:
「執り成しをする者」という存在。誰にでもできることではない。対立し争う双方から信頼される存在。正義と不正義との中間はない。愛と憎しみの仲介はない。存在と非存在の間は「無」である。現実の世界において徹底的な対立は双方にとって破滅を意味する。従って双方とも仲介者を求めている。しかし誰が仲介者になり得るのか、それが問題である。現実の世界において仲介者は仲介することによって争う両者を支配する。その意味では「執り成しをしたい者」は沢山いるが、本当に執り成しをしうる者はいない。
神と人間との対立は非対称の対立である。それはもはや「対立」ではなく「背き」である。従って執り成しをする者を求めているのは人間の側である。ところが、にもかかわらず、まったくおかしな話、信じられないことだが、神の側が執り成しをする者を求め、執り成し手を立てた。人間の側はただその執り成し手を信じ、任せるだけである。

日々の聖句2013 05月13日(月)
主よ、わたしを懲らしめてください、しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わたしが無に帰さないように。(エレ10:24)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリ10:13)
私の黙想:
ここでの「わたし」預言者個人とイスラエルの民全体とが二重になっている。民族の罪を預言者が独りで担っている。ここでの民族の罪とは「異国の民に倣うこと」、つまり偶像崇拝である。ここから 私の黙想は一挙に飛躍する。教会の財政がこの世の財政観を見倣ってしまったら教会は教会でなくなる。教会には教会独自の財政観があるはずだ。初期の教会において「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒4:34)という状況は何に基づいていたのだろうか。あの状況を「特殊」と考えるか、それとも教会財政の「原点」と考えるか。アナニアとサフィラの出来事から何を学ぶか。私の黙想は、非現実的妄想と思われてしまうので、ここで留めておく。

日々の聖句2013 05月14日(火)
わたしたちの神よ、あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。(ネヘ9:33)
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)
私の黙想:
民族の総懺悔の日、自民族の歴史の振り返り。イスラエルの滅亡の原因は100%自民族の責任によるものであり、イスラエルの復活は100%神の真実によるという歴史理解に立つ。自民族の歴史をどう理解するのかという視点と「歴史観」という視点とは異なる。「歴史観」という場合、学問的対象としての過去の事象に対する観点を言う。それは必ずしも自民族の歴史とは限らない。近代ヨーロッパの歴史であったり、アジア諸民族の交流史であったりする。そこでは可能な限り客観的分析が前提とされる。それに対して、自民族の歴史理解ということになると自民族がどのようにして成立し、他民族とどのような関わりを持ち、究極的には自民族のアイデンティティを問う。そこには「自画自賛」があったり「自己反省」があったり、感謝があり懺悔がある。何処までそれが厳密に行われたのかということことについては明らかではないが、イスラエルの民は1年に一回、全国民を挙げて自民族の歴史を振り返り、懺悔をした。それがネヘミヤ記第9章である。これはあくまでもユダヤ人によるユダヤ人の歴史の自己理解である。

日々の聖句2013 05月15日(水)
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。(詩116:12)
イエスは癒された者に言った。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。(ルカ8:39)
私の黙想:
去る日曜日は「母の日」であった。子供たちはそれぞれ母への贈り物に工夫を凝らしたことだろう。幼い子供も、成人した子供も、高齢化した子供も、今生きている母に対しても、もう既に亡くなった母に対しても、母への感謝の思いをいかにして表現できるか。それは「笑顔」しかない。
母に向けた笑顔、それに応える母の笑顔。笑顔と笑顔とが向かい合う。それが母の日の風景である。
人間は神の恵みにいかに応えうるのか。どのような行為もどのような捧げ物も、神から受けた恩寵に見合うことはない。ただ、神に向かって笑顔を見せるしかない。

日々の聖句2013 05月16日(木)
「この場所にわたしは平和を与える」と、万軍の主は言われる。(ハガ2:9)
神は、御子の十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 (コロ1:20)
私の黙想:
万能の創造神の前では人間における貴賎は取るにたりない。どう考えても、イスラエル民族の絶頂期に建造されたダビデ・ソロモンによる神殿と、バビロンから命からがら帰国した捕囚民が建築した神殿は比べるのも気の毒なほど貧弱なものであったことは想像に難くない。しかし、その神殿をご覧になって「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる」と預言者ハガイは宣言する。今日の聖句はこの言葉に続く言葉である。
ここに貧しいやもめが献げた「レプトン銅貨2枚」を金持ちたちが「有り余る中から」の献金にまさると言われたイエスの言葉と通じる。これは必ずしも「献金」の話だけでは終わらない。

日々の聖句2013 05月17日(金)
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。(詩34:19)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18:13)
私の黙想:
この詩には「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」というタイトルが付いている。これはサムエル上21:11以下の出来事を示しているのであろう。詩人はあの時のダビデの心境に自分自身の現在の境遇を重ね合わせているのであろう。つまり詩人は不当な理由により激しく批判され、追求されている。
詩人は自分自身には何の罪もないということを訴えつつも、神の前には「砕かれた心」、「悔いる霊」を持っている。ただ頑なに自分の正しさを主張し、この不当な境遇を一方的に嘆いているのではない。自分自身の心の内を探り、その時には気付かなかった態度、行為、言葉を深く反省している。何が彼を、あるいは彼らを怒らせたのか。それは必ずしも懺悔ではない。むしろ相手の立場に立って自分の省みるということである。それがここでいう「打ち砕かれた心」であり「悔いる霊」である。

日々の聖句2013 05月18日(土)
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘ12:1)
万物は御子によって、御子のために造られました。(コロ1:16)
私の黙想:
そう言えば若い頃は歳を取ること、大人に近づくことは喜びだった。でも今は歳を重ねることは喜びというより、後どれだけ生きるのかなと考えるようになった。私の場合は青春時代は単純に聖書信仰に立って「創造主」を信じていたが、今は「名状しがたい」何かに包まれている感じ。それを「私の神」と言っていいのか。そう言ってしまうと一寸違うような、その種の拘りから抜け出してしまったような。しかしこれだけははっきり言える。青春の日々に「創造主」に拘り、聖書に拘り、私自身を鍛えてきて良かった。

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