ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 08/10

2017-08-12 09:02:52 | ツイッター
お早うございます。主の平和。8月10日、木曜日。宗像市は気温27度、最高31度、ただ今室温29度。曇り時々晴れ。10時半に就寝、熟睡、6時起床。体温:36.1、血圧(116:74、71)。体調:快調。チュンチュン

25 立松佐吉さん、丹羽 一二さん、他23人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪風のない蒸し暑い朝です。
こちらは晴れのち曇り、最高気温は34度、熱中症指数危険レベルだと伝えられています。
先生ご夫妻がお守りの内によい一日をお過ごしになられますようにm(__)m

東山 富昭 おはようございます😃。昨日、マンション管理業務の求人に応募しましたが、書類選考で落ちたという通知がありました。朝の作業で蚊に刺されたり、フラつきます。今月の予定は、未定です。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

小貫 ツマ お早うございます。主の平和!

藤木 冨士子 こんにちは。

文屋 善明
8月10日 6:07 ·

昨日の日誌
午前:読書「詩の礫」、ツイートがそのままで詩になる。ナガサキの式典を見る。
午後:昼寝30分。昔話「ヨナ物語(前半)」を書く。
夕方:天候不順のため散歩は中止。
夜:「刑事7人」、報ステを見て10時半就寝。

16 丹羽 一二さん、岩城 真紀子さん、他14人

文屋 善明
8月10日 6:11 ·

お目覚めの花。人間は天候によってかなりの部分支配されているように思う。時間的にはゆとりがあるのに、気ぜわしいここ数日だ。今朝の花はストックから。月に1度か2度は行っていた、海の中道公園も自動車を降りてから1度も行っていない。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、空、木、自然、屋外

31 丹羽 一二さん、岩城 真紀子さん、他29人

文屋 善明
8月10日 6:45 ·

2017 日々の聖句 8月10日(木)
味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩34:9)
イエスの言葉:わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ6:51)
私の黙想:
「味わう」と言うことは徹底的の個人的体験であり、それをいかなる詩人も詩で表現することは出来ない。蜂蜜の甘さ、それは自分の口で味合うしか経験することは出来ない。ここではその味は「主の恵み深さ」であり、それを味わった人が「美味しい」と言ったら「美味しい」に違いないと思うだけで、そのおいしさを自分自身の舌で感じない限り、共有することは出来ない。また、たとえ「共有」したとしても、それが必ずしも同じことを意味しているという保証はない。
宗教、いや信仰にはそういう困難が常に伴う。その最も身近なことが「聖餐式」である。正直に言って、私は「聖餐式」の「味」が分からない。美味しいのか、不味いのか。それを非常にありがたがっている人を見ると、羨ましく思う。この人には信仰において勝てないな、と思う。しかし、聖書に関しては「美味しい」と心から思う。しかも、それは御ご馳走の美味しさではなく、「日常の美味しさ」、具体的には「厭きない味」というか、日本人にとっての「ご飯の味」である。信じられないようなこと、変なこと、矛盾したところがあっても、それが「味」だ。

24 丹羽 一二さん、越山 香菜子さん、他22人
コメント

門叶 国泰 「徹底的な個人体験」に烈しく同意! こういう表現がしたかったのです!間もなくupします。

文屋 善明
8月10日 6:55 · 福岡県 宗像市 ·

今日の名言:@CS_Lewis_jp
人は、善良たらんと真剣に努力してみるまでは、自分がいかに悪い人間か、わからないものである。(C.S.ルイス)
<一言>私はそんなに悪い人間だとは思っていない。だからと言って、それ程善良な人間だとも思っていない。普通だと思っている。つまり、今までにそれ程「善良たらんと真剣に努力」したことがない。まぁ。それでいいか。このまま、一生を終えたら、それで満足しよう。

19 丹羽 一二さん、岩城 真紀子さん、他17人

文屋 善明
8月10日 7:02 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第5章 正しく聖餐を拝受する者は多くの祝福を授けられること(D)
キリスト教徒:
主なる神よ、あなたが愛される人々が多くの試練と患難とのただ中にある時、彼らに特別な慰めを注ぎ、失望落胆の思いから彼らを引き上げて、あなたのお導きを望ませてくださいます。あなたは新たな恵みをもって彼らの内心を照らし、癒やされますので、最初は気が沈んで聖餐を拝受する願いを失っていた者も、この天来の食ベ物と飲み物とによって元気になり満足し、それまでとは全く違ったもになる、という経験をいたします。
これはあなたがその愛される人々への特別なご配慮で、彼らが自身としては誠に弱い者でありながら、あなたからどんなに多くの恵みを受け得るかを、真に知り忍耐強く経験するためです。(3:5:13~15)

19 岩城 真紀子さん、越山 香菜子さん、他17人

文屋 善明
8月10日 8:21 ·

ロボット人間、これが新しい人間のモデル

長崎原爆の日:「あなたはどこの国の総理ですか」 - 毎日新聞
被爆者団体、安倍首相に 禁止条約に批准しない方針で …
MAINICHI.JP
https://mainichi.jp/articles/20170810/k00/00m/040/142000c

24 佐々木 弘幸さん、金井 由嗣さん、他22人
コメント

大脇 友弘 「人作り革命」の手本??

文屋 善明 ロボットはロボってでも頭の悪いロボットです。

徳善 義和 ぶつ切りの、あの原稿の読み方!

杉浦 紀明 「AIだって国政批判くらいできる」

文屋 善明 これは「頭の悪いロボット」なんです。

文屋 善明
8月10日 9:34 ·

「昨日のFB 08/08」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9 丹羽 一二さん、Izumi Naraさん、他7人

文屋 善明
8月10日 9:58 ·

懺悔(ざんげ)か、「懺悔(さんげ)」か
山伏が修行のために山を歩く時、先頭を行く奉行さん(リーダー)が、「さーんげさんげ(懺悔懺悔)、ろっこんしょうじょう(六根清浄)」と声を発すると、グループ全体がこれに声を合わせて唱え、大合唱が始まるという。これが「掛け念仏」だという。私の尊敬する山伏のお一人、田中利典さんは「『懺悔』とはまさに神仏にひれ伏す世界。これを唱えながら山を歩くと、とてつのもない汗が身体中から流れ出ると同時に、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意の6つ)がきれいに浄化されていく、そういう思いを体験するのです」(『修験道入門』160頁)と語っておられます。大いに考えさせられる。それにしては私たちキリスト者はあまりにも「懺悔」という言葉を軽薄に語りすぎているのではないだろうか、と反省させられます。
私が聖公会に転入したての頃、先輩の一人が祈祷書では懺悔という言葉には「さんげ」というフリガナが付けられ、キリスト者にとっての懺悔は一般の懺悔とは違うので「さんげ」と読むのだと教えられました。ところが最近の祈祷書ではわざわざ「ざんげ」というフリガナが付けられています。いつの間にか「さんげ」が「ざんげ」になってしまったのか、ほとんど説明されることもありません。
祈祷書を読むたびに、私は「さんげ」といいますが、他の人たちから私が間違っていると思われはしないかと心配いたします。
私は修験道は仏教やそれこそ神道の成立以前の日本古来の原始宗教で、これが仏教と出会うことによって現在の形になったと思う。
キリスト教成立の原点になったユダヤ教もモーセの山での経験がその原点にあり、キリスト教においてもペトロを始め3人の弟子たちの「変容貌山」での経験が復活体験の背景を形作っていると思われます。
教会でも、恭しく跪いて懺悔をし、司祭から赦しの宣言を受けるだけではなく、たまには全員で、「さーんげさんげ、ろっこんしょうじょ」と大声で合唱したらいかがでしょうか。

34 郡山千里さん、安田 信夫さん、他32人

文屋 善明
8月10日 11:33 ·

アメリカ人は日本国内でしたい放題。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1498242903571544&set=a.814231691972672.1073741832.100001575459780&type=3&theater

なかむら けんいち
8月9日 16:41 ·

26 岩城 真紀子さん、安井 郁夫さん、他24人
コメント

本竜 晋 在日特権ですねw

砂川 和範 溜池の一等地にある米国大使館の敷地の賃料を何十年も滞納し続けており、請求にも一向に応じようとしない。つまり、あの一等地のあの広大な土地を無料で使用できるという特権。

文屋 善明
8月10日 15:55 ·

その直後に日本政府はこういう抗議文を出していたのですね。知りませんでした。

知らなかった!広島原爆の投下直後に、日本政府が出した「アメリカを糾弾する文書」   - 光りの進軍  光りよ通え・・・☆
BLOG.GOO.NE.JP
http://blog.goo.ne.jp/hikarinonakama/e/0bbd6f7ef6d48753f5e153cd256961ff

35 新島広治さん、中野 芳夫さん、他33人

文屋 善明
8月10日 20:46 ·

今日の「折々のことば」は、生やさしくない。私が今日一日中考えていたことは、人間としての「食う姿」である。私の尊敬する宗教学者山折先生は禅寺で雲水たちが食事をするときの姿を「静かなること影絵のごとく」と表現されている。この言葉だけでその情景がありありの私の目の前に浮かぶ。その人の生き方や考え方が「食う姿」に反映される。我が家では子どもを育てるときに一番厳しく教えたことは、一緒に食事をしている人が、この人となら一緒に食事をしたいと思うような食べ方をしなさい、ということであった。もう2度とこの人とは一緒に食事をしたくない、と思われたら一生の大損である。宗教という営みにおいて「一緒に食事をする」ということは中心的なテーマである。
画像に含まれている可能性があるもの:テキスト
http://blog.goo.ne.jp/hikarinonakama/e/0bbd6f7ef6d48753f5e153cd256961ff

29 丹羽 一二さん、越山 香菜子さん、他27人
コメント

Mizota Michael Satoshi 正直いうと宗教も飽きてきましたね。いい具合に「こなれてきた」と思うんで雇ってほしいです。

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