ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

鳥の囀りと人間の喋り

2010-01-11 10:17:44 | ときのまにまに
昨日は礼拝後古賀兄が準備をしてくれた昼食をみんなでいただき、午後5時過ぎまで楽しい、楽しい雑談をした。話題は尽きなかった。先ず、今朝の礼拝における説教の感想から始まって、政府が進めようとしている経済対策、とくに子ども手当の是非、麻生家から伊藤家、松本家など九州の財界人の様々なゴシップ、最近わたしが始めたツイッターのこと。ともかくみんなが何かをしゃべりたがっている。聞き手さえいれば人間は喋る。以下に普段の生活の中で喋ることが少ないか。人間の喋る声は鳥の囀りのようなものだ。鳥が囀ることによって鳥であるように、人間は喋ることで人間になっている。意味なんか、ある意味で何でもいい。
昨晩、テレビの新春特別ドラマで「筆談のホステス」を見た。非常に感動した。普通、クラブ等での客とホステスとの会話はその場限りのたわいもない、半分は虚飾にすぎない(と思われる)。しかし、そんなことはよく分かった上で、しかもそれを求めて客は高い料金を支払ってクラブに来る。従ってホステスにとって喋ることが売り物であり商売道具である。しかし喋る能力を失った彼女が書く筆談メモは客の心の奥底にまで達し、現実社会で傷付き病んでいる心を癒す。彼女は「筆談のホステス」として銀座で一番になった。これは実話である。テレビには本人も登場していた。
彼女が書くメモは実は母親との会話の断絶から生まれた言葉である。彼女は全身全霊をかけて母親に手紙を書く。しかし母親はそれを開こうともせずタンスにしまい込んでしまう。しかし実は彼女と母親との間には言葉を越え、メモを越え、手紙さえも不要な「会話」が続いていた。
人間同士の会話において、これが本当で、あれは嘘ということはない。人間にはいろいろな形での喋りがある。鳥が囀ることによって鳥であるように、人間は喋ることによって人間になる。ブログもツイッターも人間の喋りの一形態である。

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