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ぶんやさんの記録

断想:復活節第5主日の福音書

2016-04-23 09:01:07 | 説教
断想:復活節第5主日の福音書
歴史的瞬間  ヨハネ13:31~35

1. 文脈
ヨハネ福音書は第13章からいよいよ最後のクライマックスに入る。ここまでは、いわばこれからの準備である。12:36に「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」という言葉がある。ここからイエスは群衆の前から完全に姿を隠し、彼と運命を共にすべく選んだ弟子たちとだけの時間を過ごし、12人の弟子たちだけに語る。語られる内容は、別れる前の最後の教えである。いわばイエスと弟子たちとの関係についての総まとめであり、そのことが神の前にどういう意味を持つのかということである。従って13章から第17章までの部分はヨハネ福音書における最高峰であり、信仰の真髄が語られる、と松村克己はいう。
13章の前半(1~11)ではイエスが弟子たちの足を洗うという出来事が取り上げられ、その席でイスカリオテのユダの裏切りが予告される。このことを弟子たちに告げることは流石にイエスにとってもかなりつらいことで聖書では珍しく「(イエスは)心を騒がせ、断言された」(Jh.13:21)と記されている。イエスが「その心が騒ぎ、おごそかに言われた」(口語訳)ということはめったにないことである。悩みぬいた上での発言であろう。口に出すことによって、事柄が決定的となる。しかし、口に出さなければ、いつまでもずるずると尾を引き、事柄が前に進まない。ここにはイエスの人生を決定する重大な問題が含まれている。悩みぬいた上でイスカリオテのユダに「しようとしていることを、今、すぐするがよい」(Jh.13:27)と言われた。共に食卓を囲んでいた弟子たちは何のことかわからなかったらしい。しかし、当人にはすぐわかることであった。「ユダは一切れの食物を受け取ると、(一言も残さず)すぐに出ていった。時は夜だった」(Jh.13:30)。非常に印象的な情景である。本日のテキストはここから始まる。

2.資料問題
31節から35節には厄介の問題がある。要するに32節から35節の部分は教会的編集者の挿入句であると見做される。その最もハッキリした理由は33節の「子たちよ」という呼びかけの言葉で、この表現は新約聖書の中でこことヨハネの手紙1(2:1,12,28,3:7,18,4:4,5:21)にしか出てこない非常に特徴的な言葉である。つまり、32~35節は31節に対する教会的編集者の解説的挿入句であると思われる。
31節の「人の子は栄光を受けた」という言葉は十字架を意味し、イエスの十字架によって「神も栄光を受ける」ということが述べられている。元々のヨハネ福音書ではこれだけが述べられているのであるが、それよりも約一世代後の教会的編集者は(おそらくヨハネの手紙1の著者と同じか同じグループの人)、それでは意味が十分に伝わらないと感じたのか、「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」(32節)とほとんど同じ意味の言葉を繰り返す。その上で、ヨハネ7:32~34でユダヤ人たちに述べられた「イエスが居なくなること」と結び合わせ、イエスが栄光を受けるとことと「イエスが居なくなる」ということ同じ意味なのだと解説する(33節)。34~35節はイエスが居なくなった時の私たちの在り方として「新しい掟」を述べる。
この部分は資料的には以上のように分析されるが、復活節第5主日のテキストとしては、ひとかたまりになっているので、以下ではそのように読む。

3. 歴史的瞬間
本日の冒頭の言葉、「さて、ユダが出て行くと」という、それまでとまったく異なった空気が部屋の中に満ちた。実は部屋の空気だけではない。ユダが部屋から出て行った瞬間、歴史は大きく動いた。その瞬間の大きさをその場に居合わせた弟子たちでさえ気付いていなかった。その「瞬間」がどんなに大きな意味をもつかということをこの福音書の著者は、「サタンが彼の中に入った」(13:27)と表現する。神が動けばサタンも動く。その意味で、著者は十字架という出来事は神とサタンとの戦いであると考えている。神はその戦いに決定的に勝利したと言う(Jh.16:38)。その勝利をもたらしたものはイエスの従順である。 話を戻して、イエスはユダの裏切りを知りながら、ユダの足も洗った。しかもイエスはそのことが判っていながら「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と促される。
イエスは、「ユダが出て行くと」、「今や」という。その意味ではここでのイエスの「今や」は大変な重みのある言葉である。まさにそれはイエスの出来事における「歴史的瞬間」である。この歴史的瞬間に11人の弟子たちは立ち会った。しかし、その時が「歴史的瞬間」であることを弟子たちはまだ分かっていない。
人間には「歴史的瞬間」がその時には判らない。その瞬間まで、否その瞬間にも人間はその瞬間の持つ歴史的意味を理解できない。ただ、後になって「あの瞬間」がそういう意味であったのかということを理解するだけである。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」。考えてみると、この言葉は大変な言葉である。弟子たちにとってイエスが「栄光を受ける」という言葉を最近聞いたところである。それはギリシャ人たちがイエスに会いに来たときである。彼らの来訪を知るとイエスは突然、「人の子が栄光を受ける時が来た」(Jh.12:23)と叫ばれ、非常に興奮して、「わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい」(Jh.12:27)と、祈りに似た言葉を発している。弟子たちはその意味するところはよく理解出来なかったであろうが、ともかくそれがイエスにとって大変なことであるということは、分かった。ユダが出ていったとき、それと同じ言葉を発しられたのである。弟子たちはそれがイエスにおいて「死を覚悟してどこかに出かけること」と理解したらしい。それでこの言葉に続いて、「シモン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた、『あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう』」(Jh.13:36)。

4. 「新しい掟」?
ユダが出ていくとイエスは11人の弟子に「新しい掟」を与えるという。新共同訳が「掟」と訳している言葉は、口語訳では「いましめ」、文語訳では「誡命」で、小林訳では「命令」で、要するに旧約律法の個々の戒律(エントーレー)を示す言葉である。マタイでは5:19、22:36等で用いられている。ここでは明らかに、旧約聖書の律法に代わる「新しい律法」という意味で用いられている(以下、私は「新しい律法」という言葉を用いる)。だとするとユダヤ教の伝統の中で生きてきた弟子たちにとって、イエスから、直接、これが「新しい律法である」と提示されたとしたら、それはそれで大変なことである。
ところが、これ程の出来事を共観福音書では一切触れられていない。「新しい律法」という表現は、ヨハネ福音書のこことヨハネ第1の手紙(1Jh.2:7~8)だけである。しかも、その内容は「お互いに愛し合え」というものである。いわば相互愛が「新しい律法」として与えられた。「命じられた愛」とは何となく矛盾した概念である。イエスの基本的な姿勢は旧約聖書における律法としての愛を越えるという点にある。その典型的な例はルカによる良きサマリア人の譬え(Lk.10:25以下)である。
そもそも、互いに愛し合うということは、人類が始まって以来の基本的な在り様(ルール)である。「律法」という言葉が当てはまらないほど自明のことで、弱肉強食の自然界において人類はお互いに愛し合うという方法以外では生き延びることができない弱い存在であったし、今もそうである。現代でもそうであるし、イエスの時代でも同様であったであろう。一方でそれが事実であり真理であると同時に、人間はまた争う存在でもある。いったん争い始めるととどまるところがなく、徹底的に相手をせん滅しないでは終わらないのが人類でもある。イエスを殺そうと目論んでいる連中も人間である。親もおり子もおる人間である。その人間が同時に殺人者にもなる。つまり、お互いに愛し合うという人間の基本的なルールは、同時に常に破られるるーるでもある。
このルールに比べれば、「モーセの律法(十戒)」などはずっと新しい。つまり「新しさ」ということで言えば、イエスが与える「新しい律法」よりもユダヤ人が大切にする「モーセの律法」の方がはるかに新しい。あえて言い切ってしまうならば、モーセの律法は根源的なルールを実践するためのマニュアルのようなものである。ところが、モーセの律法がこの点を見失い、ただ単に「強制する律法」として人間を縛るものになってしまっている。イエスはこの点を指摘しているのである。この点が見逃されたら、ここでのイエスの言葉の意味は半減する。

5. ちょっと斜めから
イエスの語る愛の教えは「敵を愛す」(Mt.5:43)、「隣人を自分のように愛しなさい」(Mt.19:19、22:39)ということは述べられている。しかし、「互いに愛し合う」ということは語れていない。何故だろう。
しかし、ここで少し批判的なことをいうと、「敵を愛する」、「隣人を自分のように愛する」ということと
「互いに愛し合う」ということとを単純に比較するならば、どちらの方に深みがあるのだろうか。答えは明らかである。相互愛は組織内における愛、限定された仲間間での愛であり、愛敵とか隣人愛とは比較にならない。

6 . 相互愛を徹底すると
通常の相互愛あるいは兄弟愛は、確かに「愛敵」とか「隣人愛」と比べると、低次元の愛のように思える。しかし、相互愛を徹底すると、愛敵とか隣人愛とでは突破できない局面が開かれてくる。それがヨハネ15章12~13節の「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。愛の極限が述べられている。これも教会的編集者の言葉であるが、これが相互愛の徹底である。「友(兄弟)のために自分の命を捨てる」。これは愛敵とか隣人愛の限界を突破している。
この相互愛の対極にあるのが裏切りである。愛の対極を私たちは憎しみだと思っている。しかし相互愛の対極は仲間を裏切ることである。共観福音書におけるユダの扱い方とヨハネ福音書とではまったく異なる。ヨハネ福音書では初めから徹底的にユダを「裏切り者」(6:71,12:4,13:2,13:11,18:2,18:5)として描き出している。しかしイエスはユダを信頼し会計まで任せている(Jh.12:6)。イエスはユダの足も洗った。(聖餐の)パンも与えた。にもかかわらず、ユダは仲間を裏切った。このユダの対極にあるのがイエスである。イエスはローマの兵隊たちが捕縛に来たとき、自ら進み出て捕縛され、「私を捜して、この人々を去らせなさい」(Jh.18:8)といい、仲間を巻き込まなかった。
弟子たちはそれを見ている。その延長線上に十字架がある。だから彼らはイエスは彼らの身代わりになって死んだと思っている(1Jh.3:16)。つまり、身代わりの死あるいは、殉教の死である。仲間を裏切るぐらいなら死ぬ、死んでもいい。彼はこうも言う。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(1Jh.4:20~21)。相互愛を、ここまで徹底するとき、「新しい律法」となる。

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