ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/09/25~10/01

2016-10-01 15:35:51 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/09/25~10/01

016 日々の聖句 09月25日(日)
わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。(エレミヤ33:8)

わたしたちの救い主であるイエス・キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。(テトス2:13~14)

私の黙想:
どうしても、こういうイスラエルの民(ユダヤ人)の感覚は分からない。彼らが神に対して「犯した罪」「反逆」はわかる。分からないのは「赦され、清められる」という感覚。いや確かに、「私たちは罪を犯した」しかし、それを反省して帰って来た。それで今は正常な関係になっている」。それでいいではないか。いや確かに、私は汚れていますよ。だから、反省して、禊ぎをして、今あなたの前に立っている。それでいいではないか。ユダヤ人たちは神と人間との関係を複雑に考えすぎているのではないか。と、いうことは逆に「神の絶対性」を犯しているのではないだろうか、何て言うことを京都での朝、考える。この罰当たりめが。

016 日々の聖句 09月26日(月)
わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。(出エジプト24:7)

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(ロマ12:11)

私の黙想:
人間は誓う。誓いの言葉は立派。しかし、それに実行が伴わない。悲しい運命である。しかし、反省し、悔い改めることができるし、神はそれを受け入れてくださる。あまり甘えてはいけないが、たまには甘えることも重要である。父なる神は、甘える子供を可愛いと思う。しかし、それは成人したら情けないと思われるであろう。父から頼もしいと思われる者でありたい。

016 日々の聖句 09月27日(火)
主の言葉:わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。(出エジプト33:14)

このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっています。(2コリント3:12)

私の黙想:
ここでの「あなた」はモーセである。いわば、まだ烏合の衆に過ぎない古代イスラエルの民、せっかく神から民族形成のいわば「憲法」を与えられたとは言え、すぐに神に逆らう民を指導するという苛酷な任務。この民についてヤハウェ自身がモーセに言う。連中にこう言えと、 「あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない」、こんな民を任されたモーセの不安はいかばかりであったのだろうか。その不安を打ち消す、今日の言葉。何という言葉であろう。この「安息」は普通の安息ではない。モーセのための特別な安息である。チョット言いすぎかも知れないが、もう退職しているのだから、多少は許されるかも知れないので、思い切って言ってしまう。この安息のミニチュア版が、牧師への賜物としての「安息」である。これがあるから、牧師をやっておれる。

016 日々の聖句 09月28日(水)
彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。(ダニエル7:14)

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイ1:19~20)

私の黙想:
今日の聖句は、この文章の前の文章が重要である。前節から引用すると、「 夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」。
これはダニエルが見た幻で、いわゆる「人の子」の幻である。初代のキリスト者はこの幻を「キリスト預言(予言)」と見做して、イエスの空中再臨を信じた(マタイ24:30、26:64、他)。<参照:空中再臨という思想>(http://blog.goo.ne.jp/ybunya/e/1d71b150da1c10da407ce1ba08a14447 )
と、まぁ考えて、これ以上は一歩も進めない。

016 日々の聖句 09月29日(木)
主の言葉:なぜ、糧にならぬもののために銀を(量って)払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。(イザヤ55:2)

朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。(ヨハネ6:27)

私の黙想:
私たちは日々の糧のために金を払い、飢えないために労している。それがほとんどの平均的な人びとの生活である。一部の金持ち連中だけが、贅沢をして「糧にならぬもの」のために金を払い、音楽会に出かけ、芸術を鑑賞するために高額の金を使う。そして一生かかっても使い切れない金もうけのために奔走している。従って、今日の聖句はその人たちに向けられた聖句だと思う。食に関してだけいうならば、最後の文章は信じられない。そんなことをしていたら、食っていけない。
今の若者たちと話していると、就職不安が非常に大きい。一時のように、食うぐらいは何をしても食えるよ、と言えない若者たちの不安を本当に可哀想に思う。もっと、自分の生きがいだとか、したいことに拘ってもいいのではないかと思うが、現実はそれほど甘くないようである。こんな状況では才能のある者ほど、鬱になりそうだと思う。問題は、個人的な欲望によって支配されて、経済が健全に循環していないということである。あまりにも親の世代の経済が次世代を拘束しすぎている。そういう社会には、「明るい未来」はない。

016 日々の聖句 09月30日(金)
主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。(詩6:2)

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:34)

私の黙想:
責められても仕方がありません。懲らしめられても我慢します。でも「怒らないでください」「憤らないでください」。「怒る」と「憤る」とどう違うのだろう。口語訳によると、「怒りをもって」と「激しい怒りをもって」と、同じ言葉を使い、程度の差としている。フランシスコ会訳は面白い。いや、「興味深い」と言い直そう。「怒りのあまり」と「憤りに任せて」、よほどヤハウェは怒っておられるようだ。新改訳では「御怒りで」と「激しい憤りで」とかなり丁寧な表現で、ヤハウェの怒りを収めようとする気持ちが表れている。ちなみに文語訳では「忿?」と「烈しき怒り」で、「忿?」は漢字で書き「いきどおり」と読ませている。難しい漢字だ。「忿」は怒りを意味する。後ろの「ケイ」という漢字はコンピュータ内ではとうとう発見できなかっ「圭」という字の下に「心」と書く。漢字の難しさで、怒りの度合いを示しているようだ。
ともかく、ヤハウェの怒りはしばらくは治まりそうもない勢いがある。恐らく「鬼のような顔」であろう。いや、ヤハウェのこと、「鬼そのもの」になっておられる。もうどうにもならない。「主よ、憐れんでください」(3節)としか言えない。Kyrieを繰り返すしかない。「わたしは嘆き悲しんでいます」。そんなところではない。「わたしは弱り衰えています」(口語訳)。「私を憐れんでください。ヤハウェ、弱り果てたのです、この私は」(岩波訳)。さらに岩波訳では「私をお癒しください、ヤハウェ、おびえているのです、わが骨は」とつづく。怒り狂っている主人に縋り付いている絵である。このトーンがこの詩全体に流れている。確かに、こういう絵柄ってありますよね。親子の間でも。

016 日々の聖句 10月01日(土)
わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。(詩119:109、口語訳)

主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネ6:68)

私の黙想:
今日の聖句はなぜ口語訳なのか。取り敢えず、新共同訳を開く。「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません」。成る程、かなり違う。恐らくドイツ語版ローズンゲンに近づけたのであろう。この点について、門叶さんの今朝のローズンゲンが非常に役に立つ。ここでの「いのち」まさに生命で、新共同訳のような霊と肉体とを分けた上での「魂」ではない。しかし、口語訳の「危険にさらされている」はかなり解釈が入っている。この点については新共同訳の「常にわたしの手に置かれています」の方が原文に近いようだ。その中間というか、新改訳は面白い。「私は、いつもいのちがけでいなければなりません」。岩波訳では「わが魂は常にわが掌の中に」。これはまさに直訳、その上で、註で「生命が危険だの意」と書いている。こういう芸当は「私訳」だからできるとことで、公共訳ではできない。私の好きな文語訳では「わが霊魂はつねに危険(あやふき)ををかす、されど我なんじの法(のり)を忘れず」。ここでの「犯す」という語によって、わたしの命を危険にさらしているのは「私自身」だという意味が強調されている。この点について、門叶さんは「独りごと」で実に的確に「常に、自分の命を自分の手の内に持ち運んでいる;自分の命を自分で守らなければならない」となったら、大変だろうな!と思う。いや、本当に大変です。だからこそ、「されど我なんじの法(のり)を忘れず」なのだ。その上で、死ぬんだったら、それも良かろう。

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