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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/01/11~01/17

2015-01-18 06:16:54 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/01/11~01/17

2015日々の聖句 01月11日(日)
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(詩12:2)
そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:67~68)
私の黙想:
何という悲劇か。「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました」。
人は友に向かって偽りを言い滑らかな唇、二心をもって話します(3節)。 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」(5節)。 主に逆らう者は勝手にふるまいます。人の子らの中に卑しむべきことがもてはやされるこのとき(9節)。「嘘と暴力によって固められた権力」、これが悲劇なのではない。それは人間の世界において、残念ながらどこでもあることだ。悲劇は人間の社会から「主の慈しみに生きる人」、「信仰のある人」が消え去ることだ。ソドム・ゴモラの悲劇はそれであった(創世記18:16~33)。あの町に、たとえたった10人でも「正しい者」がいたら、あの町は滅亡から免れることができたのだ。そのため、逆にロトの家族があの町から脱出せざるを得なかったのだ。
夢のようなクリスマスのシーズンは終わり、今日から顕現後の季節が始まる。まさに「普段」の始まりである。この「普段の中」で、私たちの信仰は育てられる。今年の大斎始日は2月18日だ。大斎が始まると大斎の課題がある。それまでが成長を意味する「緑の季節」である。私たちの信仰が一歩でも先に進むように祈る。

2015日々の聖句 01月12日(月)
ノアは主の好意を得た。(創世記6:8)
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのです。(使徒言行録15:11)
私の黙想:
今日の聖句、分かるけど変な日本語。口語訳では「主の前に恵みを得た」。フランシスコ会訳と新改訳とは同じように「主の心にかなっていた」。ついでに文語訳では「エホバの目のまえに恵みを得たり」。こうなったらもうひとつついでに英語の超現代訳 Good News Bible を覗くと「The Lord was pleased with Noah.」と訳されている。ともかくみんな翻訳である。一つ一つニュアンスの違いを検討するのも一興であるが、要するに「ノアは主のお気に入りだった」ということであろう。ここではヤハウエは自分が創ったすべての生物が気に入らないという。連中は悪いことばかりしよる。えーい、みんな潰してやり直しだという心境なのであろう。その中でただノアだけはお気に入りだった。その理由は、ノアだけが「神に従う無垢な人」だったという。ここに「神」が登場するのも可笑しいが、口語訳では「正しく、かつ全き人だった」という。こちらの方がはるかに原意に近いのであろう。「正しく」はともかく、「無垢な人」と「全き人」とでは全然違う。私のお気に入りのフランシスコ会訳では「非の打ち所のない人」と訳している。これは神の話ではなく人間の話しならば、その人が自分の「お気に入り」ならば、その人がすることは全て好ましく思うものだ。要するにノアはヤハウエに逆らうこともなく、素直なのでヤハウエのお気に入りだったということであろう。だから、他の「しょうもない連中」と一緒に滅ぼしてしまうことができなかったのである。私などは間違いなく「しょうもない連中」のなかに入ってしまうであろう。こんなことを考えながら、ノアが羨ましいと思う。

2015日々の聖句 01月13日(火)
誰かが隠れ場に身を隠したならわたしは彼を見つけられないと言うのかと主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。(エレミヤ23:24)
光の子として歩みなさい。(エフェソ5:8)
私の黙想:
今日の聖句は思わず噴出すほど面白い。神について当たり前すぎることを語っているだけであるが、この言葉は誰がどういう場合に語るかということで意味がぜんぜん異なってくる。ここの文脈ではヤハウエご自身がいわゆる偽預言者に対して怒っている言葉である。「あんたたちのやっていることは全部見えているぞ」。20節から32節まで、長いので引用はしないが、ヤハウエは彼らに対して怒りをぶちまける。
とくに23節から32節では「主は言われる」という言葉が9回も繰り返される。この言葉を繰り返すことによって、若き預言者は偽預言者たちから身を守っているのであろう。ここでの主題は「主が語る」ということである。「わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい」(28節)。

2015日々の聖句 01月14日(水)
主よ、お話しください。僕は聞いております。(サムエル上3:9)
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。(使徒言行録16:14)
私の黙想:
変なことに気が付いてしまった。今日の聖句は少年サムエルの言葉ではない。サムエルの先生である祭司エリの言葉である。サムエルの言葉は10節の「お話しください。僕は聞いております」である。どこが違うか。サムエルの言葉には「主よ、」という言葉がない。著者が不用意に書き落としたのだろうか。そうかもしれない。そう思って、ここを注意深く読む返すと、ここでは「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」ということが強調されている。それでは、サムエルは何時「主」を知ったのだろうか。この時か?このことが起こった次の朝、祭司エリは昨晩のことを少年サムエルにいろいろ尋ねる。サムエルは無邪気に答える。そしてエリは言う。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」(18節)。そして著者は「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた」(19~20節)。しかし、それは解説者の言葉であって、少年サムエルに何が起こったのかということについては何も記されていない。わたしは、そこからサムエル記上を注意深く読んだ。どこで「主」がサムエルに現れ、語るのか」。不思議なことに、話題は全然違う場面に移っている。4章で祭司エリの死のことが記されているがサムエルに関しては何も記されていない。いろいろなことがあって、7章になってやっとサムエルが登場する。著者は注意深く、もう「20年を経た」(7:2)という。この20年は、少年サムエルの「あの時から」ではない。おそらく「あの時から」考えると20年以上、おそらく30年はたっているのかもしれない。サムエルが登場する直前の状況を著者はこう記している。「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた(7:2)。この状況の中で、やっと預言者サムエルが登場し、彼は演説する。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる」(7:3)。これがサムエルの預言者としてイスラエルの民衆の前に立って行った最初の演説である。私たちは、ここで初めて「主」を知り、成長したサムエルの姿を見る。あの時から「20年以上」たっている。この20年がサムエルにとっては必要な20年であった。サムエルは堂々と人々に「命じる」。 「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」(5節)。感動の一瞬である。
今朝は少々長すぎて、スミマセン。時間が十分あったものですから、ゆっくり黙想しました。

2015日々の聖句 01月15日(木)
見よ、主にささげられたこの都が、ハナンエルの塔から角の門まで再建される日が来る。(エレミヤ31:38)
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。(マタイ5:14)
私の黙想:
今年に入ってエレミヤ書からの聖句が5回も出てくる。3日に1回の割合だ。これも「籤」の結果なのであろう。今日の聖句が選ばれているエレミヤ書31章は中でももっとも重要な章で、15節にはイエスの誕生物語で出てくる「ラマの嘆き」であり、31節は「新約」という言葉の根拠となった聖句である。とくにこの章の(この章にかぎらないが)「ヤハウエは言われる」という言葉が執拗に繰り返される。この点について、フランシスコ会訳では31節と38節(27節も)とはともに「見よ、その日が来る━━主の言葉」という言葉で始まる。新改訳は「見よ、その日が来る。━━主の御告げ。━━その日」とこれもやはり、揃えている。この点に関して聖書協会系の翻訳ではあまり意識されていないようである。
「ハナンエルの塔から角の門」とは要するにエルサレムの都が「隅から隅まで」完全に再建されることを意味している。彼らにとって以前より良くなるということよりも、「元通りになる」ということの方に意味があるのであろう。その意味で言うなら、第2神殿は第1神殿(ソロモンの神殿)よりも、規模・美しさにおいて劣り、第3神殿(ヘロデの神殿)は華美すぎる。

2015日々の聖句 01月16日(金)
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえだった。(申命記7:7~8)
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(ロマ9:16)
私の黙想:
理由はともあれ、ヤハウエはわたしたちを選ばれ自分の民とされた。いま、この事実の上に立ってわたしたちは生きている。いや、生かされている。これが「福音の原点」である。
「心引かれて」という言葉は面白い。この「引かれて」は正しくは「惹かれて」という漢字を用いるべきであろう。口語訳では単に「愛し」、フランシスコ会訳は大胆にも「愛情を傾け」と訳詞、新改訳はもっと強烈に「恋い慕って」という言葉を用いている。もう、ここまで来ると、私たちの側に何か魅力的なものがあったなどというレベルではない。
巷での表現で「愛する者の弱み」という言葉がある。出典がどこかなど問題ではない。「愛する」いや「惹かれる」「恋い慕う」「愛情を傾ける」ということは、相互関係を超えている。「愛し愛される」などいうキレイ事ではない。一方的に、強引に、己をかけて、相手のために生きる、ということである。これの最もヒドイ形が「ストーカー」であろう。今日の聖句を引き出した言葉は6節の「ご自分の宝の民」とされたということであろう。ヤハウエの「一人芝居」である。こちら側を見れば「数も少なく」「貧弱」で何も魅力があるわけではない。ところが、あちら側は私たちの何に魅力を感じているのか分からんが、恋い慕っている。これが「福音の原典」だという。パウロなどはそれを「神の同情」だという。

2015日々の聖句 01月17日(土)
城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。(詩24:7)
主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。(ルカ12:36)
私の黙想:
「栄光に輝く王」を迎える荘厳な詩である。この詩を注意深く見ると、7節の城壁の外からの呼びかけに続いて、8節前半では「栄光の王」とは誰かという城壁の中からの問いに対して8節後半で答えるという形式になっている。非常にドラマティックな構造になっており、しかもこの7~8節は9~10節で完全に繰り返されている。(注意深く見なくてもわかる!)
おそらく背景には天地の創造者であるヤハウエ(1~2節)を神殿に迎える「新年儀礼」があるのではないだろうか。この儀礼には荘厳なる行列があることを想像させ、その行列の中心にヤハウエの役割を担う演技者が居たのであろう。人々はその情景を見物するものであると同時に、ヤハウエを迎える国民そのものという役割を担っている。
実はイスラエルにおける「王制」とは一種の擬態であって、王たるものも実は王の役割を担わされている「仮の王」に過ぎない。そこではドラマはそのまま現実態になっている。イスラエルの歴史において「王」が自ら「王である」と思った時に「真の王(ヤハウエ)」を忘れ、民族の没落が始まる。権力者もまたそれを歓迎する民衆も、その関係は常に「擬態」であることを自覚しなければならない。この新年儀礼はその原点を自覚させる祭りである。

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